日本に興味があるというドイツ人から、ドイツではサムライとニンジャはとても有名と聞いた。
「ではクエスチョン。侍と武士の違いはなんでしょう?」というのはハードル高すぎだから、侍と忍者の違いを聞いてみた。
すると彼は「どっちも戦うことを仕事とする人間だけど、サムライは昼に活動して、ニンジャは夜になると動き出すイメージがある」と言う。
ドイツ人が持つ忍者の印象は、アメリカのマンガや映画の影響が大きいらしい。
日本人とは前提が違うから、「忍者」と欧米人の言う「ニンジャ」は別の存在とみていい。
では昼に属する武士と、夜に属する忍者が戦ったら勝つのはどっちか?
そんな「空手 vs 柔道」の異種格闘技戦みたいな戦いが戦国時代末期にあって、それを「天正伊賀の乱」という。
長い日本の歴史の中で、武士と忍者集団の全面対決はこの一度だけらしい。
(ほかに知ってたら教えてくらはい)
しかもこの戦いは「織田軍 vs 伊賀忍者」で、格闘技界でいうなら「アントニオ猪木 vs モハメド・アリ」のような、名の知れた大物同士のぶつかり合いだ。
ただこの試合は、リング上に寝転がって蹴りを入れる猪木に対して、アリは立ってるだけでほぼ何もできなかったという凡戦に終わって、高い入場料を払った観客が負けたというオチ。
頂上決戦でも、ルールの違う者同士が戦うと塩試合になることもある。
では、武士と忍者のリアルファイトはどうだったのか?
まず織田信長の次男・信雄(のぶかつ)が1576年に伊勢国を手に入れると、彼は次のターゲットを伊賀国に定める。
それで拠点となる城(丸山城)を築いていたところ、密偵によってその動きをつかんだ伊賀衆が「完成する前に仕掛けるべし!」と判断し、多くの忍者が集結し総攻撃をおこなった。
ちなみに伊賀衆には地侍もいて、すべてが忍者だったわけではない。
で、この日の勝敗結果、不意を突かれた織田軍の敗北。
翌79年、リベンジに燃えた信雄は伊賀国に攻め込んだが、伊賀衆の夜襲などをくらってまた負けた。
この出兵は信雄の独断だったため、父ちゃんの信長大激怒。
そして天正9年(1581年)、織田信雄を総大将に丹羽長秀(にわながひで)、滝川 一益(かずます)、蒲生氏郷(がもううじさと)といった猛将も参加した4~5万の兵力が伊賀国に攻めてきた。
100%勇気じゃなくて、本気になった織田軍の大軍に忍者のゲリラ戦法は通じず、伊賀衆は敗北し伊賀国は地獄となった。
村や寺院は焼き払われ、住民は殺害された(平楽寺では僧侶700人余りが斬首、伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)。
第一次天正伊賀の乱では奇襲やゲリラ戦法を仕掛けて忍者が勝利したものの、二次では正面から正攻法で攻めた武士の勝ち。
プロレスとボクシングがかみ合わなかったように、忍者と武士では役割もやり方も違うのだ。
人数を合わせてニンジャ・ルールで戦えば忍者が、それ以外の無条件での戦いなら武士が勝ちそう。
日本人のおもてなし“失敗例”。外国の文化や価値観を無視するな。
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