韓国の古代史・日本認識 「白村江の戦い」をどう考える?

 

先日10月4日は663年に、「白村江(はくすきのえ)の戦い」にあった日だったもんでこんな記事を書いてみました。

日本はいつできた? 「白村江の衝撃」からの国内大改革

古代の朝鮮半島にあった百済は660年に、唐・新羅の連合軍の攻撃を受けて滅亡する。
でもその後、生き残った人たちが百済復興のために活動し、支援を求められた日本が軍を出して唐・新羅と戦うも、大敗北しましたの巻。
「祖国アゲイン」の夢が断たれた百済の人たちは日本へ亡命し、彼らを受け入れた日本は新しい国づくりに取り組んでいくのだったーー。

そんな「白村江の戦い」について、韓国ではどんな認識をしているのか?
戦前・戦中の日本統治を韓国では「日帝強占期」と呼ぶように、日韓の歴史認識は基本的にかみ合わず、一致するのは1910~1945年までといった期間ぐらいなもの。
古代史ではどうなのか、韓国の中学生用の歴史教科書を見てみた。

そこには660年に唐・新羅が攻めてきて、奮戦むなしく百済が滅亡したことや、その後にあった祖国復興運動についてはわりと詳しく書いてある。

百済の各地で百済を蘇らせる動きが強烈におこった。
百済の復興運動は若い将軍黒歯常之、王族福信、僧侶道探、倭から帰ってきた王子豊などを中心に粘り強く続けられた。

「躍動する韓国の歴史 (明石書店)」

 

でも、ここでの登場人物は国を失った百済人だけで、日本人はゼロ。
そもそもなんで百済の王子・豊璋(ほうしょう)が倭(日本)にいたのか?
*韓国の教科書では「豊」。
その理由は、日本と主従関係を結んだ百済がそれを保障するために、人質として豊璋を送ったからだと日本では考えられている。(扶余 豊璋
韓国の歴史教科書では豊璋が日本にいた理由はスルーされて、戻ってきたことだけが書いてある。

王族の鬼室 福信(きしつ ふくしん)や将軍だった黒歯 常之(こくし じょうし)が、この王子を中心に百済を復興させようとしたのは当然。
それで彼らが日本に救援を求めると、(大化の改新で有名な)中大兄皇子がそれに応じ唐・新羅との戦いを決意する。
ただ豊璋が鬼室福信を殺してしまうとか、百済勢力はまとまりに欠けていた。
とにかくそんな遺民を吸収して、日本軍が663年に連合軍と決戦を挑んだが、大敗北して終了。

「百済の復興運動は~粘り強く続けられた。」のハイライトがこの白村江の戦いなのに、韓国の歴史教科書にはその記述が無い。
地図に「白村の戦い 百済軍大敗663」とだけ書いてあって、日本の存在を無かったことにしている。

こんなふうに日本側の歴史と照らし合わせると、韓国側が書かなかった部分が浮かび上がる。
兄より優れた弟など存在しない」理論と同じで、「日本が朝鮮半島の国より優れているわけがない」という古代史や日本への認識を持っているから、それに合わないコトは鋭意消去されるのだ。
だから逆に、「日本人に仏教をはじめとする先進文明を伝え」といった記述が何カ所もあるし、日本サイドの歴史を知っていると、豊璋のように誰かがいきなりが登場して「あれ?」と思うことがある。
白村江の戦いも結局は「663年」という年号しか一致していない。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。