中国皇帝・徽宗はマレにみる無能だが、日本人は感謝していい

 

きょう11月2日は北宋(中国)の第8代皇帝・徽宗(きそう)の誕生日ということで、つつんでお悔やみ申し上げます。
というのは1082年のこの日に生まれた徽宗は、「古代中国の無能皇帝ランキングTOP10」というネットのランキングで、堂々の2位になった中国の歴史でマレにみる無能だから。
当時、彼のまわりにいた人間は「皇帝ガチャ」でとびきりのハズレを引いてしまい、地獄のような苦痛や恥辱を味わった。
北宋が滅亡する原因をつくったのも徽宗だったし、彼の誕生日はもう喪に服すべき。
でも日本人にとっては、彼の無能はむしろラッキーだった。

 

いろいろやらかした徽宗

 

北宋の第8代皇帝が徽宗なら、室町幕府の第8代将軍は足利義政。
1449年に将軍になった義政は、京都を灰にした応仁の乱の原因をつくってしまい、幕府の権威を失墜させたから政治家としては有能とはいえない。
でも銀閣寺を建てて、東山文化をうんだ彼は文化人ではある。
徽宗はそんな足利義政の上位互換だ。

芸術をこよなく愛する徽宗は庭園を造るために、遠くから貴重な花や木、奇石などを運んでこさせた。(花石綱
その際、輸送に邪魔になる民家や橋があったらぶっ壊す。
それに細部を破損させないようにと~っても丁寧に梱包したから、とんでない費用や労力がかかって、それがそのまま庶民の負担となる。
芸術活動にはカネが必要だ。
普通の芸術家ならスポンサーを探すところだけど、皇帝の徽宗は民に重税を課してその資金を集める。
「見ろ。人がゴミのようだ」というレベルで徽宗は民を軽視していたから、国民の生活は苦しくなっていき、地方では方臘の乱などの反乱が続発した。

そんな徽宗には、はるか昔に失った領土の「燕雲(えんうん)十六州」を取り戻すという悲願があった。
いま北京のあたりにある燕雲十六州は契丹人の国・遼に支配されていて、何とかして遼から、この地を奪い返したかった徽宗に吉報が届く。
女真人が涼の北側に「金」を建国したのだ。
それで早速、「上と下から挟み撃ちにして、遼を滅ぼそうぜ」と持ちかけると金も同意し、双方が攻め込んだところ、金軍にとって遼軍は雑魚キャラも同然ですぐに撃破したのに、北宋軍はまるでダメ。
燕京(北京)をなかなか落とせずにいて、しまいには金に援軍を要請するという情けない決断をする。
「頼まれた!」と金軍がやってくると、たちまち燕京を攻略してしまった。
北宋軍とは何だったのか。
で、約束どおり燕雲十六州のうち、燕京を含む南の六州は北宋、上の十州は金のものとなる。

遼という強敵が消えたし、失地回復は一部だったとはいえ燕京という重要部分を手に入れた。だから、これで了とするべきだったのに、徽宗は燕雲十六州すべてを自分のものにしたくなって、これは約束違反なのに、彼にはその欲望を止められない。
それで遼の残存勢力に「一緒に遼を滅ぼそうぜ」と持ちかけると、それがバレてしまって、金を大激怒させるという絶望的状況をつくり出した。

怒りのカタマリとなった金軍が攻めてきたと知った徽宗は、あわてて「罪己詔」(ざいきしょう)を出す。
地上のすべての支配者である皇帝を裁くことができるのは皇帝しかいないから、「己を罪する詔」を出して、徽宗は自分の過ちを公式に認めたのだ。
これは中国皇帝にとってかなりの恥辱。
同時に徽宗は皇帝の座を長男に譲ったのだが、これは責任をとるというよりは、とんでもない爆弾を息子に押し付けたようなモノ。
そして自分は光の速さで逃げ出した。

このあと金軍が撤退すると、新皇帝となった息子の欽宗(きんそう)との関係が悪化して、徽宗は首都・開封に連れ戻されてどっかの建物に閉じ込められる。
1126年、再び金軍が「うぉりゃーーー!!!!」 と怒涛の勢いでやってくると、たちまち開封を制圧し徽宗と欽宗を金へ連行した。
この靖康の変によって北宋は滅亡し、金軍の捕虜となった徽宗もそのまま異国の地で死んだ。
でも、徽宗らと一緒に連れて行かれた皇后や皇女、宮廷にいた女性たちにとっては、これからが本当の地獄だった。
約1万2千人の女性が娼館の「洗衣院(せんいいん)」にぶち込まれるなどして、金の男どもに性的奉仕を強要される。
まだ幼かった皇女たち(徽宗の娘もいた)が成長すると同じ目にあう。
この苦痛や恥辱に耐え切れず、自殺する女性もいた。

「古代中国の無能皇帝ランキングTOP10」の2位で、「キング・オブ・クズ」と言われても反論できないのが北宋の第8代皇帝・徽宗だ。

 

皇帝としても父親としても、もはやヒトとして無能な徽宗だったけれど、書や絵の才能には恵まれていて彼は「風流天子」と称された。
北宋最高の芸術家の一人と言われる徽宗の作品がこちら。

 

 

この『桃鳩図』はいま日本にあって、国宝に指定されている。

 

「書」においては、細くて力強い線が特徴の「痩金体」(そうきんたい)という書体を考案し、これは当時の中国で大人気となった。

 

痩金体

 

徽宗直筆のコイン

 

徽宗について『桃鳩図』以上に、日本人にとってはラッキーなことがある。
皇帝としての彼は最低と最悪の二冠王だったから、民衆蜂起が相次いで起こり、山東省のあたりでは宋江(そうこう)が立ち上がった。
『三国志』ほどの人気は無いとしても、それでも昔から日本人に愛されている『水滸伝』はこの宋江による反乱がモデルになっている。
もし徽宗が反対で、善政をおこなう名君で民衆の生活が安定していたら、この傑作は生まれなかったのだ。
だから、いまの日本人・中国人・韓国人は徽宗の悪政と無能に感謝していい。
当時、彼のまわりにいた人間にとっては、徽宗は「動く死亡フラグ」でしかなかったけれど。

 

宋江

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。