世界の歴史と違う日本 12世紀末に武家政権・幕府が登場

 

鎌倉時代が始まったのは、源頼朝が将軍になった1192年とひと昔前は習っていた。
でもいまでは、1183年や1185年と諸説ある。
「そんなこまけーことはいいんだよ!」という、タイ人の「マイペンライ」や韓国人の「ケンチャナヨ」精神でいうなら、12世紀末と覚えておけば十分だ。
実際、ツッコむところは他にある。

1185年のきのう12月22日、全国に守護・地頭を設置したいという鎌倉幕府の要求が後白河法皇によって認められた。
まず兄ちゃんとケンカした源義経に対して、「頼朝を討ってよし」と後白河法皇が追討命令を出す。
でも集まった味方は少数で、形勢不利とみた源義経が京都から逃げ出してしまう。
そして、「はあ? オレが朝敵ってどういうこと?」と激怒した頼朝は北条時政に千騎の兵をつけて京都へ向かわせ、朝廷の責任を追及する。
「あれはホントごめん…」と朝廷は弱気になっていたから、各地を移動して逃げる義経を討つために守護・地頭を置くという鎌倉幕府の要求を認めるしかなかった。(文治の勅許
同時に後白河法皇は今度は「義経を捕らえよ」と命令を出す。
法皇の手の平は360度の可動式で、クルクル回転するらしい。
とにかく後白河法皇の承認を得たことで、軍事警察権を手に入れた頼朝は幕府による全国支配の基盤を確立させていく。

 

有力武士だった源頼朝が将軍になって、武家政権の鎌倉幕府を開いて日本を統治したことはダレでも歴史の授業でならったはず。
でも、この日本の常識が海外では無い。
いや、あるかもしれないけどボクの知る限り、「幕府」みたいな政権は存在しない。
源頼朝のような実力者が現れた場合、外国では時の政権を倒して自分が頂点に立ち、新政府を樹立してその国を統治するのがアタリマエ。

たとえば中国を見てみよう。
中国の歴史では、食べ物が無くなって民衆が困窮し、治安が悪化して社会的な混乱が広がっていくと、誰かが立ち上がって皇帝を倒し、その一族も滅殺して自分が皇帝に即位して新王朝を始めるのがお約束。
中国人には常識的だったこの「易姓革命」の考え方を日本人は受けれ入れなかった。
だから、日本史ではまったくの別の人間が天皇になったことはなく、「万世一系」と呼ばれるほど一つの系統がずっと続いてきた。

韓国の歴史では、高麗の軍人だった李成桂がクーデターを起こして高麗王から王位を奪い、1392年に新王朝の「朝鮮」を建国。
もちろん高麗王やその一族は殺害される。

タイでは軍人だったラーマ1世が主君のタークシン国王を処刑した後、自分が王となり、1782年にバンコクを首都としていまに続くチャクリー王朝を起こした。

ヨーロッパ史では、軍人が皇帝になったナポレオンが李成桂やラーマ1世と似ている。
またフランス革命や清教徒革命では市民が皇帝や国王を処刑して、君主のいない新しい政治体制(共和制)をスタートさせた。

 

というとこでどこの国の歴史でも、古い王朝を完全消去して、新しい人物が新政権を開いている。
この法則が日本の歴史には当てはまらない。
朝廷から「文治の勅許」をもらって全国に守護・地頭を設置したり、義経追討の命令が出てから義経を追いかけたりして、源頼朝は朝廷の承認をもらってから行動に移していた。
実力でいえば、朝廷を滅ぼすぐらいの武力を持っていたと思われるが、頼朝はそうすることなく、死ぬまで天皇の家来であり続けた。
でも政治の権利は奪って、幕府を開いて日本を統治する。

鎌倉時代がいつ始まったかということよりも、頼朝が「幕府」という世界の歴史には無いような政権政を築いたことに注目したほうがいい。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。