私を神社に連れてって。イスラム、ヒンドゥー教徒が思ったこと

 

「山の上にあって、金色の鳥居がある神社へ行きたいです。」

インド人とバングラデシュ人の女性と、それにトルコ人、ナイジェリア人、インドネシア人の男性がそんなことを言うから、浜松市の北部にある「天空の神社」として有名な秋葉神社(秋葉山本宮秋葉神社)へ行くことにした。
「火防(ひぶせ)の神」である秋葉大権現は日本全国で信仰されていて、その起源となったこの神社には江戸時代、たっくさんの人がお参りに訪れてその賑わいは伊勢神宮に匹敵するレベルだったとか。
東京・秋葉原の由来になったのがこの神社だ。

火事を恐れる日本人 東京・秋葉原はこうして生まれた

ということで今回は、そのとき彼らから聞いたことを書いていこう。
ちなみにインド人はヒンドゥー教徒で、ナイジェリア人・バングラデシュ人・トルコ人・インドネシア人はイスラム教徒だから、国籍は関係なく、ヒンドゥー/イスラムに二分されている。

 

秋葉神社のシンボルマークは楓(かえで)だから、神社のあちこちで見ることができる。

 

秋葉神社の神紋を「一つ楓(ひとつかえで)」という。
日本人は秋の紅葉が昔から大好きだったけど、はかなく散ってしまうから、楓は家紋としてはあんまり人気がなかった。

そんな話をすると、とインドネシア人がこんなこう言う。

「そうですか。イスラム教のシンボルは三日月と星です。モスク(礼拝所)とかイスラム教を信仰する国の国旗でよく見ます。」

それを聞いたトルコ人は、ややドヤ顔でこんな話をする。

「それはもともとは、オスマン(トルコ)帝国の国旗にあった新月旗(三日月)だったんだ。オスマン帝国はトルコを中心にかつてイスラム世界を支配していたから、その影響で各国が三日月のデザインを採用するようになったんだよ。」

 

境内にいくつもある「一つ楓」を見たナイジェリア人は、「あの葉っぱは大麻に似てるな。大麻はもっと細いけど」なんてことを言う。
たしかに神道と大麻(おおぬさ)には深い関係があって、いまでも使われていると話すと「マジで!」と彼にビックリされた。

麻を素材として神に捧げる布を「ヌサ」といい、それに「立派な」を意味する「大」をくっつけて大麻(おおぬさ)になる。
神社によくあるこんな緑の植物を榊(さかき)といって、これは大麻で作られている。
くわしいことは「大麻(神道)」で確認のこと。

 

神と人と世界の境を意味する「境木(さかき)」から、「サカキ」の言葉ができたという。
木と神をくっ付けた「榊」は日本人が作った独自の漢字だから、知り合いの台湾人や中国人に見せると不思議そうな顔をしていた。

 

すると横にいたインド人がこんなことを言い出す。

「インドには大麻を使った食べ物や飲み物があって、それをバンといいます。飲み物のラッシーに大麻を入れればバングラッシーです。ヒンドゥー教では、気分が高揚するお祭の時に大麻を使う人がよくいますよ。路上でゲラゲラ笑ってる人を見ると、『うわー、コイツやってんな』って思います。最初はそんなことを想像しましたけど、話を聞くと、日本の神道はまったく違うようですね。」

バングラッシーと一番茶ぐらい違うわ。
古代の日本人なら「もっと神を感じるため」、「神と一体化するため」とか言って祭で大麻を使って、ラリって酩酊状態になっていたかもしれないけど、いまなら根こそぎ捕まる。

 

秋葉神社では犬を連れて参拝する人がいた。

 

モスクやヒンドゥー教の寺院へ生き物が入っていいのだろうか?

それを聞くと全員一致で、「普通はそういうところへ、ペットを連れて行くという発想がない」。
特にイスラム教で犬は「汚れた動物」とされているから、モスクに入れるなんてことは考えられない。

インド人が言うには、自分の知っているお寺では、生き物の持ち込みが禁止されているかわからない。ヒンドゥー教ではいろんな生き物が神聖視されていて、象がお寺にいることもある。
(寺に像じゃなくて、象がいるというのはまさにインド。)
余ったお供え物の食べ物をあげることが多いから、お寺の近くには犬がたくさんいる。
そう言えばインドのどこかで、イスラム教徒へ嫌がらせをするために、モスクに犬の頭部を投げ込むヘイト行為があったという話を聞いた。
宗教対立はインドで深刻な社会問題になっている。

(ペットの散歩と一緒に参拝に来る日本人は、宗教的にカジュアル過ぎるかも。)

 

象がご神体になっているヒンドゥー教のお寺。

 

ヒンドゥー教ではOKだけど、イスラム教ではNGどころか、宗教的な「犯罪行為」になるのがこちら。

 

 

 

 

イスラム教において神はアッラーのみ。
だから自然物の石や木を神聖視して、ご神体として崇(あが)める行為は絶対に許されないのだ。
日本人が見たら思わず手を合わせるような、神聖性を帯びた像を作ることも禁止されている。
宗教色の一切ない美術作品ならOKと、イスラム教徒たちは言う。
ヒンドゥー教は日本の仏教や神道と同じで、人や神、生き物の像を自由に作ることができるし、お寺にはそんな像が山盛りあるらしい。

 

秋葉神社にはこんなお皿に願いごとを書いて投げて、下にある丸い輪の中に通すことができると、願いがかなうという「天狗の輪投げ」がある。
イスラム教やヒンドゥー教ではどうやって願いごとをするのか?

 

 

「ヒンドゥー教徒なら寺へ行って神さまに祈って、願いごとがかなったら、お返しに食べ物をお供えしたり寄付をしますね。いろんな神がいて役割がありますから、自分の願いに応じた神に祈ります。」と話すのはインド人。
(やっぱりヒンドゥー教徒は、お寺や神社にお参りに行く日本人に近い。)

対してイスラム教は一神教だから、どんな願いごとでもすべて神(アッラー)に祈る。
神道、仏教、ヒンドゥー教と違って、それ以外の選択肢はない。
そして願いごとがかなっても、アッラーにお供え物はしない。
神にそんなことは必要ないらしい。

 

「七福神」なんて、イスラム的にはまさに神への冒とく。
この中で日本の神は一柱だけ、あとは中国とインドの神が3柱ずついると話すと、「なんでそうなったのか、サッパリわかりません」とインド人が驚く。
これはイスラム・ヒンドゥー教徒には理解が難しいらしい。

 

境内で秋葉神社っぽい、金色のおみくじを発見。

 

イスラム教で「これからあなたは~となります。~に注意しなさい」と未来を語ることができるのはアッラーだけ。
だから、おみくじのような物や行為は禁止されている。
でも、ヒンドゥー教ならノープロブレム。
運勢が紙に書いてあるおみくじのような物は見たことないけど、ヒンドゥー教の僧が手相で占うことはよくあるとインド人が言う。
でも、彼らはよく嘘つくという問題があるから、信じない人も多い。

(インドもズルのできない「おみくじスタイル」を導入するべき。)

 

日本のお寺や神社では、よくお守りやおみくじを頒布(はんぷ)している。
*お札やお守りを“売る(買う)”と言うのは失礼だから、神の恵みを分けるという意味で「頒布(はんぷ)する」なんて表現する。
お寺や神社は国や市町村から財政支援を受けていなくて(文化財補助金などはある)、税金を払う側だから、「天狗の輪投げ」のように、参拝に来た人にお金を使ってもらうアイデアを考えないといけない。

そんな話をすると、「ええっ!本当ですか!」とみんなビックリ。
イスラム教ではモスクが税金を納めることないし、大きなモスクなら国が支援しているという。
ヒンドゥー教でも同じで、寺院に税金を払うという発想はなく、政府や地元の役所から財政支援を受けることがあるらしい。

この感覚やシステムは完全に日本とは逆。
日本で宗教施設は税金を一部免除されることはあっても、「政教分離」の原則に基づいて、お寺も神社も国民の三大義務の一つ、納税の義務から逃れることはできない。
もし滞納したら、容赦も慈悲もなく、預金や不動産なんかを差し押さえられてしまう。

 

ということで神道を基準にすると、ヒンドゥー教は価値観や考え方で割と近くてイスラム教は遠くにある。
社会的にみると今回の外国人の国に比べて、日本では政治と宗教が明確に分かれている。
でも、日本人はお寺や神社を”お伊勢さん”みたいに「さん付け」で呼ぶことがあるし、ペットも連れてきちゃうし、心の中で寺社はかなり身近なところにある。
感覚としては宗教というより、日本の文化だろう。

 

 

外国人から見た不思議の国・日本 「目次」

たぬきの置物がラッキーな8つの理由・外国人の反応

日本にいるインド人さん歓喜。奈良の大仏と菩提僊那の話

【ヒンドゥー教と神道】イギリス王子も“穢れ”、お祓い対象に

インド人、日本人に怒る「仏教徒がクリスマス祝ってんじゃねえよ!」

 

コメントを残す

ABOUTこの記事をかいた人

今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。