「貴様には死すら生ぬるい!」
中国でそんなふうに罵倒されている人物に、南宋の秦檜(しんかい)がいる。
彼が何をしたかは前回の記事を見てもらうとして、今回は秦檜とは内容や程度は違うけれど、死んでも許されずに晒(さら)しものになった英国の有名人を紹介しよう。
いまの中国で売国奴の代名詞になっている秦檜と(その妻)
人びとのあまりの憎悪の深さから、墓地から掘り返されて、生前の“罰”と辱(はずかし)めを受けた英国人がオリバー・クロムウェルだ。
「ももクロ」になぞらえて「オリクロ」と言う人もいるかもしれない。
オリバー・クロムウェル(1599年 – 1658年)
軍人だったクロムウェルは清教徒革命において、鉄騎隊を指揮してネイズビーの戦いで国王軍を破り、国王チャールズ1世をスコットランドに亡命させて勝利を決定づけた。
その後、クロムウェルらの勢力は1649年にチャールズ1世を処刑する。
これで王政が廃止された英国は共和制の国(イングランド共和国)になって、クロムウェルがそのトップに立つ。
そしてはオリクロは王に匹敵する、強大な権限を持つ護国卿(ごこくきょう)となってイングランドを支配した。
*「Lord Protector」をそのまま日本語訳したのが護国卿。
騎士系アニメの上級キャラで出てきそうなこの官職は、英国史では「His Highness(殿下)」と呼ばれていて王に近いきわめて高い立場にあった。
清教徒革命の前にもいたから、詳しいことは「護国卿」で確認のこと。
国王を葬って、護国卿という“新しい王”になったクロムウェルは独裁政治を行ない、最後は1658年にインフルエンザにかかって死亡した。
斧(オノ)でチャールズ1世の首を切断した処刑人
だがしかし、その後、国王を支持する勢力(長老派)が「どぉーりゃー」と巻き返す。
そして1660年、処刑されたチャールズ1世の息子のチャールズ2世が国王となり、共和制が廃止されて王政が復活すると完全にターンが逆転する。
今度はクロムウェルたちが裁判にかけられ、有罪判決を受けて処刑がきまった。
といっても、彼はすでに死んで墓地に埋められている。
それでも、「王殺し」(レジスト)の罪は許されないから、英国紳士たちは墓を暴いてクロムウェルの死体を掘り起こし、刑場で絞首刑にしてから斬首に処する。
もちろんすべて形式的なもので、主な目的は国王支持者の感情を満たすため。
クロムウェルのが処刑された1月30日は、1649年にチャールズ1世が処刑された日だから、いろいろ考えて死者に復讐をしている。
そしてクロムウェルの首は20年以上も、ウェストミンスター・ホールの屋根に晒(さら)された。
でも、すでにこの世の人ではなくなって、痛覚を失ったクロムウェルはラッキーだ。
「王殺し」の関係者で生きていた人間は、英国人が考案したもっとも残酷で苦痛に満ちた「首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑」で処刑されたのだから。
偉人として死んだ後、評価が一転して、死体になっても罪を与えられたクロムウェルのような人物がいれば、この逆バージョンもある。
1431年に“魔女”の認定を受けて、生きたまま焼き殺されたジャンヌ・ダルクは1456年に行われた裁判の結果、生前の有罪判決は無効となって「オルレアンの乙女」の名誉は回復された。
(ジャンヌ・ダルク復権裁判)
でもこれだったら、護国卿として好き勝手にやって死んだ後で、遺体を好き勝手にされたほうがいい。
絞首刑に処されるクロムウェルの死体
民衆に晒(さら)されたクロムウェルの首
その後いろいろあって、この首が埋葬されたのは約300年後だ。(クロムウェルの首)
秦檜の場合、いまの中国ではほぼ全員一致で「この売国奴が!」という評価が与えられている。
でなかったら、こんな像は撤去されているはず。
これは秦檜の妻
一方、クロムウェルについては時代や人によって評価が大きく変わるから、イギリス内でも一致していない。
王政復古が始まった17世紀は「王殺し」の罪人としてボロクソ言われたが、18世紀になると「いや、彼はすごいヤツだったのでは?」と好意的な見方が出てきて、19世紀にはクロムウェルを「イングランド史における英雄の一人だ」と絶賛する人まで現れた。
いまでは彼に対する見方は賛否両論、いろいろある。
クロムウェルの死後結局王政に戻ったため、現在のイギリス国民は彼を評価しない人も多い。数百年経った今も、類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、歴史的評価は分かれている。
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