【清盛の誤算】まあ、子供1人ならいっか → 平氏一族が滅亡

 

ヨーロッパ人が大航海時代をむかえる100年ほど前、すでに中国人の鄭和(ていわ)はアフリカまで到達する大航海を実現していたのだ! と自慢する中国人もいる。

中国人の自慢・鄭和の大遠征と、永楽帝の暗黒面

これは、15世紀の明の第三代皇帝・永楽帝の時代にあったこと。
で、なんで彼は家臣にこんな冒険を命じたのか?
この動機については、謀反をおこして皇帝となった永楽帝は、前皇帝の死体が見つからなかったことから生存を疑って、鄭和に捜索させたという説がある。
もし皇帝が生きていたら、人々が結集して大勢力となって「やられたらやり返す!」と、今度は自分や一族の人間が殺されるかもしれない。
となると文字どおり、この世の果てまで探しに行ったという説は十分考えられる。

 

中国の歴史では戦いがおきると、勝った側が敵の責任者だけでなく、その一族をことごとく殺害するのはよくあること。
中央政府に反乱をおこして失敗したら、首謀者の両親や子ども、血のつながりのある人間はすべてと言ってレベルで処刑される。
それを族誅(ぞくちゅう)という。
革命が成功したり謀反を鎮圧した時には、将来の危険を排除するために、勝者が敵の一族を完全滅殺することは当時の常識からするとアリだ。
平清盛はそれをしなかったために、子孫が巨大ブーメランの直撃をくらった。

 

判断を誤った平清盛

 

まず1156年に、後白河天皇と崇徳(すとく)上皇が争う「保元の乱」がぼっ発し、後白河側が勝利する。
このとき源氏や平氏の武士団が後白河のために戦い、力をつけて政治の世界に入ってきたことで、慈円が「ムサ(武者)ノ世ニナリニケル」(愚管抄)と書いたように、武家政権が成立するきっかけとなった。
その3年後、今度は保元の乱の勝者が分裂する。
後白河天皇の側近だった信西(しんぜい)と藤原信頼(のぶより)が対立すると、信西は平清盛と、信頼は源義朝(よしとも)とタッグを組んで「平治の乱」がはじまる。
この対決は信西&平清盛の勝利。

敗者となった義朝は殺され、息子だった13歳の頼朝も首をはねられて父の後を追わせた。
…となるはずだったのを、清盛の母にあたる池禅尼(いけのぜんに)が「まだ子供だから助けてあげて」と嘆願して、「いやそれは無理」と清盛に断れると、「ならもう食事はしません」とハンガーストライキに入る。それで「まあ、子供だしいいか」と清盛が折れて、頼朝は伊豆へ流されるだけですんだという。
これが大誤算。

頼朝が伊豆で成長して大人になると、命を助けてもらった恩をあだで返すことを決め、弟の義経に命じて平氏と戦ってその一族をこの世から消し去ってしまう。
そして朝廷から政治の権利を奪った頼朝は、鎌倉幕府という武家政権をつくって日本の統治者となる。
子供だからといって小物ではない。
頼朝1人を生かしたことで、清盛は平氏一族の滅亡という重大な結果を招いてしまった。
永楽帝ならそんな死角はない。
子供だからといって容赦はなく、未来の不幸になりそうな芽はしっかり摘んだはず。

ただ、頼朝は池禅尼の恩を忘れることはなかった。
だから平家を滅亡させても、その息子である頼盛と一族(池氏)は特別扱いで優遇し、鎌倉幕府の御家人として存続させた。
大量にあの世へ送られた平氏一族が先にいた清盛に、「おまえさ~」の後に何を言ったのかはしらない。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。