歴代天皇の中でいちばん不運で悲しいと思うのが、高倉天皇を父に、平清盛の娘(徳子、建礼門院)を母にもつ安德天皇だ。
生まれた時代が動乱期すぎる。
1178年に生まれて、わずか1歳で天皇に即位した(させられた)ころ、安徳天皇のじいちゃんの後白河法皇は清盛によって幽閉されたし(治承三年の政変)、源氏が平氏打倒のために立ち上がっていた。
そして1183年に源義仲が京都へ入ってくると、安徳天皇は平家一族と都落ちする。
いま何が起こっているのかよくワカランまま、安徳天皇は連れて行かれたと思われる。
このあと源義経とかいう軍神によって、平氏は一ノ谷の戦い、屋島の戦いに負けて追い詰められて、壇ノ浦の戦いでも源氏に敗北し一門は滅亡する。
1185年のきょう4月25日、安徳天皇は壇ノ浦の戦いの戦いのさなか、おばあちゃん(清盛の妻・平時子)に抱きかかえられて、
「極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」
「波の下にも都がございます」
という言葉と一緒に海に飛び込んで、6歳でこの世を去った。
歴代の天皇の中で最も短命で、戦乱で命を落としたと記録されている唯一の天皇。
本人には何の責任もないのに、生まれた時代が悪かったため、平氏と一緒に滅亡する運命を背負わされたのが安徳天皇だ。
これ以上に不幸な天皇なんて知らない。
安徳天皇
安徳天皇の命日である4月25日は、明の最期の皇帝・崇禎帝(すうていてい)が亡くなった日でもある。
崇禎帝が皇帝に即位したころの中国も、安徳天皇と同じように動乱の時代にあった。
中国の歴史でもトップクラスの悪宦官・魏忠賢が国を私物化していたし、北からは満州族の国・後金が中国に進入して、南では李自成らの反乱が起きていた。
内も外も敵だらけという明王朝の末期、崇禎帝は一人でこの困難な状況を打開しようとがんばったが、崇禎帝は疑い深い性格で、何人もの臣下を誅殺する。
なかでも天才的な策略でもって、何度も後金に勝利し、諸葛孔明にも匹敵すると言われた武将・袁 崇煥(えん すうかん)を処刑したのは致命的だった。
後金が「清」と国名を変えたあと、明にスパイを送って「袁崇煥が謀反(むほん)をくわだてている」というウワサを流す。すると崇禎帝はその話をアッサリと信じてしまい、袁崇煥を殺害してしまう。
清にとっては最大の敵、明にとっては最強の守護神だった袁崇煥を崇禎帝は自ら殺したことで、明王朝の滅亡を決定づけた。
1644年に李自成の軍に北京を包囲されて、もう敵をくい止めることは不可能と悟った崇禎帝は、敵軍に捕まって屈辱や苦しみを受けないように娘たちを殺害したあと、自分は紫禁城を抜け出して、すぐ北にあった木で首を吊った。
こうして1644年4月25日、崇禎帝は34歳で亡くなって明朝も滅亡する。
日本の安德天皇も中国の崇禎帝も最高の家に生まれることができたけど、生きた時代が悪すぎた。
皇帝が「ささやかな幸せ」を手にすることは不可能で、最高か最悪の二択しかない。
安德天皇と崇禎帝は「時代ガチャ」に失敗して、平氏一族や明王朝とともに滅亡するという、これ以上ないほど不運な運命を背負わされてしまった。RIP。
いまでも北京の紫禁城の裏に、崇禎帝が首を吊った木の2代目か3代目がある。
崇禎帝が住んでいた北京の紫禁城
今日(というかもう0:00を過ぎているので昨日)、安徳天皇が壇ノ浦で入水死するシーンをNHK大河ドラマで見ました。この幼子の不運を「時代ガチャ」に例えるというのは、なんだか、あまりにも、平和な現代日本人の「傲慢さ」がなせるわざであるような気がしてなりません。
安らかに・・・。