日本で「2大春の」と言えばパン祭りと紫綬褒章。
スポーツや学術の分野ですばらしい功績を残した人に贈られる紫綬褒章の伝達式が今週の月曜日にあって、WBCで優勝した侍ジャパンがこれを受章した。
二階級特進の名誉は悲しいけど、これは素直にめでたい。
日本で勲章の制度は1875年から始まったから、もう150年ほどの歴史がある。
その中で最高位の勲章、いわば日本最高の名誉が「大勲位菊花大綬章」(だいくんい きっか だいじゅしょう)だ。
戦後に皇族ではない人物でこれを受章した人は16人で、直近では安倍晋三氏がいる。
大勲位菊花大綬章をつけた昭和天皇
勲章制度はヨーロッパを参考に明治時代につくられたもので、それ以前の日本では、スバラシイ功績のあった人物には、天皇や将軍から高い地位をあたえられた。
例外的には最高級の名誉として天皇が臣下に自分の名前を授けることがあって、日本史でそんな激レアな人物は足利尊氏しか知らない。
その名誉授与について書く前に、東アジアの文化「避諱(ひき)」を知っておこう。
東アジアの漢字文化圏では本名を諱(いみな)といった。
英語にすると「real name」だから、現代人には漢字よりこっちのほうが分かりやすいか。
名前と人物は一体化しているから、本名で呼ぶことはその人を霊的に支配することにつながる。
そんなことが許されたのは親や主君など本当に限られた人たちで、それ以外の人間が他人を本名で呼ぶことはあり得ないほどの無礼。
そんな考え方から中国や日本では、自分の君主など目上の人の名前を使わない風習があった。
特に中国では皇帝の名前(諱)を臣下が書いたり言ったりすることは厳禁されていて、ウッカリその文字を口にすると厳しく処罰される。
いまの日本で「あったまいいー」の意味で使われる「秀才」というのは、もともとは中国の科挙(国家公務員の採用試験)の科目のことだった。
これが約2000年前の後漢のころは光武帝の諱が劉秀だったことから、その名を避けて「茂才」と呼ばれた。
ちなみに光武帝(劉秀)は、日本に「漢委奴国王」の金印をあたえた皇帝といわれる。
こんな避諱(ひき)を逆算すると、皇帝と同じ名前をもらうことは中国ではこれ以上ない名誉となる。
そんなレアな人物が、中国人の父と日本人の母との間に生まれた「鄭成功」(日本人名は田川福松)。
1644年に明が異民族の清に滅ぼされると、明王朝に仕えていた鄭成功は清を駆逐し、中国を再び明の天下にすることを誓う。
そのために粉骨砕身、全身全霊で努力する姿に、皇帝一族の生き残りである隆武(りゅうぶ)帝(正式な皇帝ではない)が心を動かされる。
それで成功に国姓(こくせい)をたまわることにした。
1368年に朱元璋(げんしょう)によって建国された明は、その姓である「朱」が国姓(こくせい)となっている。
この「朱」の姓をあたえるということは、形式的には皇帝と同じ一族になるということだから、中国では臣下にとって最高の名誉だったはず。
でも、明の歴代皇帝と同じ姓を名乗ることは、忠臣である鄭成功には重すぎた。
国姓をもらった後も彼は「朱成功」と名乗ることはなく、ずっと「鄭」の姓を使っていた。
そんな鄭成功は結局はジャンヌ・ダルクにはなれず、明の復興も夢に終わる。
日本では江戸時代に鄭成功が「国姓爺(こくせんや)」としてブレイクする。
いまでも中華民族の英雄とされている鄭成功
超上級国民の名前を避ける「避諱」(ひき)の文化は日本にも伝わり、8世紀には天皇と皇后、それと藤原鎌足、藤原不比等の名前を使うことが禁止された。
いまの茨城県にあった真壁は、もともとは「白壁」だったのだけど、光仁天皇の諱である「白壁」とかぶってしまったから8世紀に真壁へ改称される。
こんな避諱の考え方から、源氏物語に登場する貴族の実名は記されていない。書いちゃいけないのだ。
ここで話を足利尊氏に戻そう。
鎌倉時代の末期、将軍が日本の実質的なトップにいたことを嫌った後醍醐天皇は「そうだ幕府、滅ぼそう」と考える。
1324年にその倒幕計画がバレて失敗した残念な事件を 正中の変という。
でも、日本の統治者になりたいという後醍醐天皇の欲望はとても強く、また倒幕に立ち上がった。
と思ったらソッコーで幕府につかまり、「天魔の所為(悪魔のせいであって、自分の責任ではない)」などと意味不明な供述をしたが許してもらえず、天皇は隠岐島へ流された。
でも、後醍醐天皇のあきらめない力はすごい。
隠岐島から脱出して、またまた鎌倉幕府の打倒運動を開始。
すると今度は武将の足利高氏が幕府を裏切り、後醍醐天皇の味方になったことが決定的な影響をあたえ、3度目のオネスティーで幕府を滅亡させた。(元弘の乱)
そして1333年に建武の新政が始まる。
天皇は今回の倒幕では高氏が最大の功労者だったと評価し、後醍醐天皇の諱(いみな)である「尊治(たかはる)」から「尊」の一字をあたえた。
これで高氏は尊氏になる。(建武の新政)
日本は中国と違って、天皇には姓が無いから「国姓」なんてものも無い。
ということで鄭成功と足利尊氏を比べると、皇帝(の一族)と天皇から名前をもらった歴史上かなりマレな人物という点では一致する。
でも、清の滅亡と明の復興に成功は失敗して、鎌倉幕府の滅亡と天皇の復権(親政)に尊氏は成功した。
国姓をもらっても決してそれを名乗らなかった謙虚な成功と違って、ずぶとい足利尊氏はすぐに改名する。
でも2人の最大の違いは、忠臣と逆賊だったことだろう。
尊氏はその後、後醍醐天皇を敵として戦って勝ち、武家政権である室町幕府を創設して日本の支配者となった。
敗れた後醍醐は京都を脱出して吉野へ逃げて、南北朝時代がスタートする。
死ぬまで同じ主君への忠誠をつづけた鄭成功と違って、尊氏は鎌倉将軍を裏切り、最後には天皇に弓を引くというとんでもないことをしやがった。
これが彼の評価を決定づける。
幕末の1863年、京都の等持院にあった足利尊氏の木像の首と位牌が持ち出され、「正当な皇統たる南朝に対する逆賊」として賀茂川の三条河原にさらされた。(足利三代木像梟首事件)
「天皇に背いた謀反人」のイメージは戦前までつづき、尊氏は日本中の嫌われ者になる。
そんな彼について1921(大正10)年に、中島久万吉 (くまきち)が、尊氏は再評価されるべき人物だと称賛する。
その後、中島が商工大臣をしていたころにこれが問題になった。
逆賊である尊氏を評価するような人間が大臣をしていることは、日本の教育行政にとって望ましくないという批判が上がって、中島は最終的には辞任へ追い込まれる。
令和のいま足利尊氏はわりと高く評価されているが、将軍を裏切って天皇の敵になったという闇イメージはやっぱり消えてはいない。
尊氏が日本民族の英雄にはなるとは思えない。
いまの中国や台湾で最高レベルの愛国者&理想的な忠臣として、神のように尊敬されている鄭成功とは天と地。
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