20年ほど前、静岡出身のボクが京都に移住してから、言葉と文化の壁に何度かぶつかって「イテテ」となった。
たとえば、うなぎの聖地・浜名湖のある浜松では考えられないが、京都の人はうなぎの蒲焼を「マムシ」と呼ぶ。
「マムシよばれました」で「ウナギの蒲焼を食べました」の意味になると知った時は衝撃的だった。
京都の「いけず文化」はさらに難しい。
この考え方から、京都人は自分の本音を遠まわしに表現し、相手に”真意”をさとらせようとする傾向がある。
だから、京都人には裏と表があるとよく言われる。
以下のフレーズを見ると、実際に使われているかは別にして、京都の「いけず文化」がわかってくると思う。
「ぶぶ漬けでもどうどす?」の本音は「早く帰ってくれ」
「また考えておくわ~」は「お断りします」
「ええ時計してはりますな~」は「おまえの話は長い」
英語ではそれぞれ「Get out of here」「No thank you」「I’m tired of your long talk」になるというから、京都以外の日本人なら英語のほうが理解しやすい。
基本的には自分の本心や本当の姿を見せようとしないで、それを示す時は別の表現で間接的に伝えようとする。
こうした京都のいけず文化の一端に触れたことで、知人のニュージーランド人とタイ人は京都人に対する見方が一変したという。
その話を書く前に、ボクの経験と印象から、ニュージーランド人とタイ人の性格について語らせてほしい。
まずニュージーランド人(とオーストラリア人)には、気取らない、フレンドリー、素朴といった特徴があって、知人はそれを「Down to earth」と表現した。
日本人がニュージーランド人と付き合うと、すぐに「Down to earth」の気さくな人がらを実感するだろう。
そんなニュージーランド人は本音と建前を持たず、相手と対等に接し、自分の考えや気持ちをはっきり伝える。
次に、タイ人は基本的にラクをしたいと考えるから、「めんどくさ…」と思うことがあると、本心とは違うことを言ってごまかすことが多い。
相手の感情を傷つけないようにアイマイな言い方をして、かえって相手にダメージを負わせることもよくある。
でも、日本にいるタイ人は、建前や空気から「本音(正解)」を感じ取ることにストレスを感じることが多いというから、上のタイ人の本音・建前は日本人とはタイプが違う。
本音と建前の少なさは、「ニュージーランド人<タイ人<分厚い壁<日本人」という感じだ。
これはボクがニュージーランド人とタイ人に対して持っている印象で、他の人に聞けば別の見方があるだろうし、「人はそれぞれ違うから一概には言えない」という、そりゃそうだろ的な無意味なことを言う人もいる。
でも、相手が「いい時計をしてますね」と言うのを聞いて、「話が長すぎたか、しまった!」と気づくのはニュージーランドやタイの人たちには無理。
彼らの文化と京都の「いけず」には、マリアナ海溝より深いミゾがあるから。
そんなニュージーランド人とタイ人の知人は5年以上前、それぞれ別の機会に京都を旅行し、バスや地下鉄を使って金閣寺や清水寺などの名所を見て回った。
その時の感想は2人も最&高。
嵯峨野の竹林や赤い鳥居が並ぶ伏見稲荷大社は幻想的だったし、清水寺の周辺には日本の伝統的な家屋が並んでいて、散歩をするとタイムスリップした気持ちになる。
ニュージーランドは1840年に建国された若い国で、現存する最古の建物もその時代のものらしいから、千年帝都である京都とは歴史の感覚がまったく違う。
京都で「この前の戦争」と言うと太平洋戦争を超えて、室町時代の守護大名である細川勝元と山名宗全による応仁の乱を指す。
京都の人から「前の戦争は大変どしたなあ」と言われたら、「ほんまどすなあ、細川はんもえらいことしましたな」と、応仁の乱を前提に返事をする必要がある。いやしらんけど。
とにかくそんなことで、知人のニュージーランド人は京都で歴史の重みを感じることができて、とても深い印象を受けた。
一方、13世紀に建国されたタイ(スコータイ)は、ニュージーランドよりも長い歴史はあるけれど、京都にはかなわない。
知人のタイ人が見たいちばん古い建物は、1767年にビルマ(ミャンマー)の攻撃を受けて滅亡したアユタヤ王朝の遺跡だから、京都人の歴史感覚からするときっと「ついこの前」になる。
ちなみに、京都の排他的な考え方や文化は、「応仁の乱みたいによそもんが暴れ回って、京都が何度もめちゃくちゃにされた」という苦い経験から生まれたと、京都人から聞いて納得した思い出がある。
建物以外にも、2人は京都旅行で人々たちのおもてなしに感動した。
他の地域の日本人と比べて、明らかに京都の人たちは外国人に慣れている。
外国人と目が合うとすぐに目をそらす日本人がよくいて、それをされるとすごく感じが悪い。
でも、京都ではホテルやレストラン、お土産屋のスタッフが自分と目が合うと、「ようこそ」とニコッと笑顔を向けてくれることが多かったから、いい気分でいられた。
日本人の友人から、京都人には「いい時計してますね=話が長い」といったウラオモテがあって、本音がわかりにくいと聞いてビックリしたけど、それは日本人の話で外国人には関係ない。
自分たちにとって、京都の人たちはフレンドリーで親切だ。
と、そう思った時期が彼らにもあった。
京都に恋に落ちてから数年後、彼らは運転免許証を取って車を買い、今度は一緒に京都旅行をした。
といっても、その時は兵庫での用事がメインで、その帰りに京都を観光したというショートトリップだ。
そしたら、あの美しい思い出が崩れてしまった。
すでに金閣、銀閣、清水寺といった有名どころは見ているから、今回彼らは車を使って、外国人が行きそうにないお寺をいくつかピックアップして回ってみた。
お寺は人気がなくて静かで、素晴らしい雰囲気で満足できたけど、ヒトに引っかかって、旅行全体の満足度は低下した。
その日の観光で利用したコンビニやレストラン、カフェで何か違和感をおぼえ、2人ともそう感じたから、これは気のせいではないと確信する。
自分たちと目が合っても店員に笑顔はないし、ただ「いらっしゃいませ」と言うだけで、温かさを感じることがない。
注文を受けて料理を運んできて、会計を済ませて「ありがとうございました」という流れも、ほとんど無表情でタンタンとこなす。
前の旅行でよく見た親しみのある顔に、今回はまったく出会えなかったから、失礼な態度はなかったけれど、すごく冷たい印象を受けた。
同じ京都の人なのに明らかに違う。
帰りの車内で、2人がその理由をあれこれ考えてみた結果、「あれが本当の、”素”の京都人だ」という結論に至った。
有名な観光地の店にいる京都人は、毎日のように外国人と接している人たちで、きょう出会ったのは主に地元の人をお客さんとしている人たちだ。
自分たちも英会話の先生をしていて、ビジネスの顔と素顔は使い分けている。
そのことから考えると、前者は観光地での商売のための京都人で、本来の姿はきっと今回のように他人に冷たいのだろう。
日本人の友人が話していた京都人の「ウラオモテ」がわかった気がする。
そう思うと、前回の美しい思い出もちょっと傷ついた。
京都の人たちを嫌いにはならないけど失望はしたと、残念そうに話す2人の姿は印象的だった。
最後に、京都に住んでいた経験から言わせてもらいたい。
京都の人たちは、観光地のお店では京都人を「演じている」ところがあって、地元の店では、店員は常連さんには親切だけど、1回だけの客には素っ気ない対応をするところが少なからずあると思う。
このニュージーランド人とタイ人は前回の旅行から期待値が高かったぶん、今回は京都の「いけず文化」についていけず、その洗礼を浴びてガッカリしたのだろう。
オーストラリア人が見た1970年代の日本 地獄の東京・異質な人
コメントを残す