ほんじつ9月19日は「苗字の日」。
江戸から明治に時代が変わると、新政府は四民平等の社会を実現するために1870年のこの日、平民にも苗字を名乗ることを許した。(平民苗字許可令)
それまでは、苗字は武士や貴族などの特権階級が使っていたものだったから、それと同じ権利を与えられ、庶民は歓喜した。
…ということはなく、苗字を名乗る人は少なかったらしい。
それで1875年に、明治政府は全国民に苗字の使用を義務づけた。
現在でもミャンマー人には名字(姓)が無い。
それでも生活はできるから、名字は必ずしも必要ではないらしい。
ということで今回は、日本の氏・姓・名字(苗字)の歴史や違い、そして、伊藤さんや加藤さんの起源となった「藤原氏」について書いていこう。
中学生のころ歴史の授業で、古代の日本には「氏姓制度」という身分制度があったことをならったはず。
ヤマト政権は天皇(大王)を中心に、各豪族(氏)が天皇に従って政治を行っていた。
この天皇に仕える血族集団が「氏(うじ)」で、その例には蘇我氏・物部氏・中臣氏などがいる。
天皇がこの氏集団に家柄や役職に応じて「姓(かばね)」を与えることで、朝廷内でのランキング(地位)が決められた。
天皇が氏に与えた姓には、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)などがあり、これは身分を示すものと考えていい。
こうした氏と姓を組み合わせる氏姓制度によって、古代日本は成立していたのだ。
「臣」と「連」という姓(かばね)は政治を担当し、それを名乗る氏族(豪族)の中で、最も力のある者をそれぞれ大連(おおむらじ)、大臣(おおおみ)という。
大連と大臣は、天皇をサポートしながら国の政治を担当し、共にヤマト政権における最高位の官職だった。が、あえて言うなら、大臣の方が大連よりやや上にいたと思われる。
飛鳥時代にこの2つの姓が仏教をめぐって対立した。
大臣の蘇我馬子が聖徳太子(厩戸皇子)を味方につけ、仏教を嫌った大連の物部守屋(もののべ の もりや)と戦い、勝利したことで蘇我氏は全盛期を迎える。(丁未の乱)
蘇我馬子の場合、「蘇我」が氏で「大臣」が姓になる。
彼の自宅には島を浮かべた池があったから、馬子を「嶋大臣」と呼ぶ人もいた。
でも、「奢(おご)れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし」と平家物語にあるように、どんなに強大な一族にも終わりは訪れる。
蘇我氏は崇峻(すしゅん)天皇を暗殺するなど、調子に乗りすぎた。
それで645年に天誅が下り、中大兄皇子と中臣鎌足が「乙巳(いっし)の変」で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏は滅ぼされた。
この乙巳の変をはじめ、大化の改新で活躍した中臣鎌足は、天智天皇から「藤原」の姓(かばね)が与えられ、藤原鎌足に改称して藤原氏の始祖となった。
ちなみに中学生のころ、テストで「藤原鎌足」と書いたらペケにされた思い出がある。
乙巳の変の時点では、まだ彼は藤原の姓をもらっていなかったから、「中臣鎌足」が正解ということで。
平安時代になると藤原氏のメンバーが増えて、さまざまなグループ(家)が生まれた。
そんなことから、同じ藤原という氏の中でも、各家を区別するために「名字」が使われるようになったとされる。
名字は姓と違って、地名などに由来して自分で考案することができる。
たとえば、一条に住んでいた藤原氏は「一条」、西園寺を建てた藤原氏の貴族(西園寺 公経)は「西園寺」を名乗った。
「近衛家」や「九条家」なども生みだした藤原一族は、平安時代には圧倒的な勢力を誇っていた。
現代でも、「藤」の付く名字で、藤原氏から派生したものは多い。
斎宮頭(さいくうのかみ)をしていた藤原氏は「斎藤」、土木工事を担当していた木工助(もくのすけ)の藤原は「工藤」、天皇の護衛を務めた内舎人(うとねり)の藤原氏は「内藤」という名字を名乗るようになった。
また、各地の地方を治める藤原氏にも、さまざまな名字が生まれた。
加賀の藤原氏は頭文字を取って「加藤」、伊勢の藤原氏は「伊藤」、近江の藤原は「近藤」、佐野の藤原氏は「佐藤」を名乗った。
だから、これらの名字は土着化した藤原氏と言うことができる。
*「佐藤」は左衛門尉(さえもんのじょう)に由来するという説もあり。
平安時代後期になると武士が登場する。
彼らは、自分が支配する土地の所有権をアピールするためにその地名を名字とし、それを子孫が受け継いでいった。
歴史としては「名字」が先に現れ、江戸時代になると「苗字」を使うことが増えてきた。
「苗(なえ)」には「子孫」という意味があり、苗字には「同じ祖先をもつ子孫が共有する名前」といったニュアンスがある。
詳しい情報は「漢字文化資料館」のHPで。
戦後になると、常用漢字で「苗」の読み方に「ミョウ」が割り当てられなかったから、現在でも公的な書類では「苗字」は使われていない。
だから、一般的には「名字」を使うことが多い気がするけど、「苗字」でも間違いではない。
天皇から与えられた姓(かばね)も無くなり、姓も名字(苗字)も同じように使われている。
姓を与える立場にいたせいか、天皇には名字が無い。
”ゴクウ”というペルー人!欧米(キリスト教圏)の名前のつけ方。
日本も19世紀までほとんどの平民が苗字(姓)を持っていなかったということですね。
朝鮮も同じでした。朝鮮の場合、18、19世紀になって社会が極度に混乱し、その時奴婢たちが逃げて平民のように暮らしながら自ら苗字を書きました。しかし、朝鮮のすべての民に苗字を持たせたのは日本帝国でした。日本が朝鮮を統治し始め、朝鮮の民全体に苗字を書くよう制度化しました。日本と朝鮮が苗字がなかったのは似ていますが、日本は自国が自国民に苗字を与え、朝鮮は異民族から苗字をもらいましたね。
苗字を持っていても、平民がそれを名乗ることは禁止されていました。
武士など支配階級の特権ですね。
朝鮮では日本時代に苗字が導入されたと言うのは不思議な気がします。
ある韓国の反日歴史講師が「日本は明治維新前までほとんどの平民が苗字を持たない未開の状態だった」と前提しながら、平民に姓をつけろと言ったら、自分たちが住んでいる地域や職業などを姓にしたと嘲笑しました。
しかし、朝鮮の状況を見ると、日本をあざ笑う状況ではありませんでした。17世紀だけでも朝鮮人の30~40%は奴婢でした。奴婢は苗字がなかっただけでなく、名前まで人のそれではありませんでした。例えば”ケトンイ(犬の糞)”庭の牛”牛の糞などでしたね。
朝鮮における奴婢解放は1894年、日本と西欧列強が社会を変化させた時期であり、苗字のなかった彼らに苗字をつけるよう命じたのは1909年の日本帝国でした。
現在、韓国の苗字の中では”金(キム)”李(イ)”朴(パク)”が全国民の40%以上です。苗字のなかった奴婢たちが、当時有名な苗字だったこの苗字を自分の苗字として使ったのです。
韓国人があれほど憎む日本が自分たちに苗字を持たせてくれたというのが歴史のアイロニーですね。
こういうことは韓国の歴史教科書には書いてないでしょう。
自分たちがいつ、どうやって苗字を持つようになったか、知らない韓国人は多いでしょうね。