下の写真、右のナイスガイは医師で細菌学者でもある野口 英世(明治9年 – 昭和3年)。
黄熱病や梅毒の研究で世界的に有名で、何度もノーベル賞の候補者にあげられた。
ノーベル賞受賞はならなかったけど、千円札のデザインには選ばれた。
でも今回の話は左側のおばあさんについて。
この人の名前は野口シカといって、ウィキペディアにはこんな説明がある。
1872年に小桧山佐代助と結婚し、イヌ・清作(後の英世)・清三の2男1女(その他に、死産した男児、及びイヌの双子の兄弟(生後10日ほどで死去)がいる)を生む。
これを読んだとき、「イヌ」に引っかかった。
清作と清三は普通の日本人の名前だけど、なんで長女はイヌなのか?
しかも母親は「シカ」。
シカの子どもがイヌというのは出木杉君。
だから、女性の名前がカタカナで動物名というのは意図的なものだと思った。
でもその理由はわからない。
野口家が動物好きだったのか、女の子が生まれたら四足獣の名前をつけるといった家訓でもあったのか。
そういえば、昔の日本人の女性の名前には片仮名の動物名が多い気がしたけど、「考えてもわからんものはわからし、先に進もう」とこのときはスルー。
でも、「シカ」と「イヌ」は頭のどこかで引っかかっていた。
さいきん「オトナンサー」の記事(2019.09.16)でその謎が判明。
スエ、ツル、ウメ…昭和初期前生まれのおばあちゃんに「片仮名」の名が多い理由は?
和文化研究家で日本礼法教授の齊木由香氏によると、昔の女性の名前に片仮名が多い理由は、「江戸時代から続いた男尊女卑の影響と、名前を付ける親の世代がそれほど漢字を知らなかったという時代背景」があるから。
平安時代、「ひらがな」は女性によく使われていたことから、「女文字(女手)」と呼ばれていた。
時代が一気に進んで明治~昭和になると、その時代背景から平仮名より片仮名が多く使われることとなる。
この時代は日清、日露、日中に太平洋戦争と戦いが続いた時代で、日本には「男性的精神の高揚が言い立てられた社会的雰囲気」があったという。
それで女性的な平仮名より、マッチョなイメージの片仮名の社会的地位が上がって、「本字」と呼ばれる漢字の次に片仮名が正式な文字と考えられるようになった。
これにくわえて田舎では教育が十分に行われてなく、漢字の読み書きができない人がたくさんいた。
それでこうなる。
男子には気合を入れて漢字の名前を付けたのに対し、女子に名前を付ける際には『漢字は恐れ多い』という意識が強く、どの世代でも読み書きのできる片仮名の名前が付けられていたのです
さらに男尊女卑の考え方から、稼ぎ手となる男性や特に跡取りの長男は大切にされていたから、男の子が生まれた場合は、知識のある人に知恵をかりて立派な漢字の名前がつけられていた。
女の子の場合は、ハッキリいえば「分かればいい」というぐらいの適当なもの。
3番目に生まれたから「サン」、末っ子で生まれたから「スエ」とか。
「子供はもうこれで最後でいい」と思ったら「トメ」(止め)や「シメ」、さらに投げやりな「ステ」(捨て)という名前がつけられることもあったのだ。
また、「ツル」「カメ」「マツ」「ウメ」「タケ」「ハナ」など、縁起のいい動植物から命名されることも多かった。
「クマ」「トラ」「ウシ」といった動物の名前をそのまま女の子につけるケースもあったというから、「シカ」と「イヌ」はきっとこれ。
沖縄では、生活用品の「カマ」「カマド」「ナベ」が子どもの名前になることもあった。
さらに「メガ」をくわえた「ウシメガ」「カマドメガ」「カニメガ」という名前の人もいる。
この「メガ」には「~ちゃん」といった意味があるらしい。
おまけ
名前がシカだろうと、子を思う母の気持ちは明治も令和も変わらない。
海外で研究していた野口英世に会いたいという一心で、シカは息子にこんな手紙を送っている。
「はやくきてくたされ。いしよ(一生)のたのみて。ありまする。」
「これのへんち(返事)まちておりまする。ねてもねむられません。」
かなり長い文なので、全文はこの記事をどうぞ。
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日本女性の教育や人権意識醸成は、男性に比べて間違いなく遅れていたでしょう。それゆえ、女性には漢字の名前が避けられたという一面も、確かにあったでしょう。だがしかし、男性であっても、現代のように一般人が漢字を自由自在に使えるようになったのは、実は、さほど昔のことではなかったのですよ(特に大都市以外の地方では)。むしろ、名前をつける側である男性(一家の主)が漢字を十分にマスターしていなかったからこそ、女性の名前をカタカナやひらがなで済ませようとしていた、そんな向きもあるのです。
その証拠は、現在は殆ど見られなくなってしまった「代書屋」の存在です。私が若かった70年代くらいまで、例えば運転免許試験場や役場の近くには「代書屋」がたくさん店を構えていました(運転免許試験場の周辺なんか、代書屋兼茶店休憩所(?)みたいなところが多く、店先で客引きまでしていた)。で、庶民は、運転免許その他役所への申請書類を作るのに、下書きを代書屋へ持っていってそこで正式書類に清書してもらうのが一般的でした(なぜか代書屋で申請書を売っているということもあった)。そんなことをしていた理由は、汚い字で役所へ書類申請すると恥ずかしいとか、役人に受け付けてもらえないとか、あるいは申請者が漢字を書くのが苦手だということもあったのです(私の父親がそんな人で、役所への申請書類は旧制度中学卒の母に書いてもらうのが常でした)。
その後、代書屋では、和文タイプ(もう現代では見ることのない特殊なタイピング装置です)を使うのが一般的になり、さらにその後は一般人がそこそこ丁寧な正しい文字で申請書類を自筆できるようになり、伝統的な代書屋は行政書士や司法書士の下請として雇われたり、証明写真撮影に転業したり(それも今ではスピード写真自販機になった)、そうでない者は高齢化とともに自然消滅していったのです。
江戸時代から日本は、文盲率が世界的にも低い国として知られていますが、それはひらがな・カタカナがあったればこその話です。庶民レベルで漢字を自由に使えるようになるまで教育が普及したのは、実はそんなに昔のことでもないのです。
「代書屋」というのは本で読んだことがあります。
パキスタンやインドではいまでもいるそうですが。
貴重な話をありがとうございます。
ひらがな・カタカナは偉大な発明でした。製紙法は中国の技術を導入しましたが、古くから仮名を考案したのは日本人らしいと思います。
これが日本文学や識字率、資本主義経済の発展にどれだけ貢献したかは計り知れない。