10年ほど前、日本の会社で実習生として働いていた3人のタイ人と知り合った。
その第一印象というか、自己紹介はなかなか強烈だった。
タイ人A「はじめまして。私はフィルムです。」
タイ人B「私はドリームです。」
タイ人C「ボスです。」
とりあえずAさんからツッコんでみると、彼の親はカメラが好きだったから、息子に「Film」という名前を付けたらしい。
BとCさんの場合は、将来、立派な人間になってほしいという親の願いから、「Dreams」と「Boss」の名前を付けられたとか。
もちろん、これはニックネームで本名は別にある。
タイの社会では、名前はニックネームで呼び合うのが一般的で、他人は相手の本名を知らなくても問題ない。
ボクはタイの文化をよく知らなかったから、いきなり「フィルムです」「夢です」「上司です」と言われて、ちょっとした「JSA(ジェット・ストリーム・アタック) 」をくらった気分で戸惑った。
ということで、今回はそんなタイ人の名前文化について書いていこう。
タイでは、お坊さんにアドバイスをもらって、子どもの名前を決めることが多い。
日本人や外国人は、タイの首都を「バンコク」と呼ぶ。
でも、それはいわばニックネームで、正式名称は次のように100文字以上もあって、首都名としては世界で最も長いのだ。
「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」
魔法陣を描いて暗唱すれば、バハムートを召喚できる予感。
正式名称は長すぎるから、タイの人たちは「クルンテープ(天使の都)」と言うことが多い。
タイでは首都だけではなく、人間の名前もわりと長い。
日本では明治時代の1870年に、新政府は四民平等の社会を実現するために、平民が苗字を名乗ることを認めて、1875年に全国民に苗字の使用を義務づけた。
この事情はタイも似ている。
タイで名字を持っていたのは王族や貴族などの上級国民だけで、1913年に法律が制定された後、全国民が名字を持つようになった。
日本では江戸時代、平民が名字を持っていても使っていないケースがあったから、すべての平民に名字が無かったわけではない。
タイ人の文化では、長い名前はカッコイイ、見栄え(耳ざわり?)が良い、立派な人のように見えるといった理由から、名前が長くなる傾向がある。
要するに、他人とは違う「映える」名前がいいと。
首都名が世界最長になった理由もきっと同じだ。
バンコクとは、「マコーク(植物)のある水辺の村」といった簡単な意味。
一方、正式名称のほうは、「…多くの大宮殿を持ち、九宝のように楽しい王の都、最高・偉大な地、インドラ神の戦争のない平和な、インドラ神の不滅の宝石のような、天使の大都」となる。
立派な首都として権威を示すために、こんなに長い名前になったのだろう。
最近は、日本で活躍するタイ人のサッカー選手が増えてきた。
でも、コンサドーレ札幌にいた「チャナティップ・ソングラシン」や、セレッソ大阪にいた「チャウワット・ヴィラチャード」といった名前は、一度聞いただけで覚えることまず無理。
ネットを見たら、(いまでも現役かどうかは知らんけど)タイのサッカー選手には「シンタウィーチャイ・ハタイラッタナクーン」や「ナルバディン・ウィーラワットノドム」という名前の人もいる。
だから、タイの人たちは呼びやすいように、本名とは別にニックネーム(タイ語でチューレン)を持っていて、日常生活ではそれを使っているのだ。
ちなみに、日本のサッカー中継では、アナウンサーがタイ選手のニックネームを呼ぶわけにもいかないから、なかなかの「実況泣かせ」になるらしい。
ベトナム代表みたいに、「選手交代です。グエンに代わって、グエンが出てきました」というのもややこしいけど。
チャナティップさんのニックネームは「イン」で、チャウワットさんは「ジェー」だ。
タイ人が初対面の人に「はじめまして。私はフィルム(ドリーム、ボス)です」と本名ではなく、ニックネームを伝えるのはタイの常識だったのだ。
日本の会社でも、上司の日本人は彼らをニックネームで呼んでいたから、ある日、こんなコトがあった。
上司がドリームを呼んで、「この書類に書いてあるタイ人は誰かね?」と質問した。ドリームさんが見たら、そこには自分の本名が書いてあったというオチ。
ボクもいまでも彼らの本名は知らない。
タイ人のニックネームはバラエティー豊富でユニークだ。
「パンケーキ」という女優がいれば、「ヨーグルト」というモデルに、「サンキュー」というアイドル歌手もいる。
サンキューさんの場合は、両親が「この子を授けてくれてありがとう」と神に感謝したことから、こんなニックネームになったらしい。
また、5月生まれの女性なら「メイ(May)」、男性では、将来お金に困らないように「バンク(銀行)」というニックネームを付けられることがある。
そういえば、以前、日本でもデビューした「タタ・ヤン」というタイのアイドル歌手がいた。
彼女の両親がインドへ旅行に行った際、「タタ財閥」の存在を知り、娘には金持ちになってほしいという願いから、「ターター」というニックネームを付けたという。
ほかにも、親がビール好きだったから息子に「ビア」、日本のアニメ「一休さん」が好きだったから「イッキュウ」、「クレヨンしんちゃん」のファンだから「シンチャン」というニックネームを付けた例がある。
つまりは「親ガチャ」で、基本的には何でもアリらしい。
だから、カエルやブタというニックネームもある。
ちょっと脱線。
江戸時代にアユタヤ王朝のタイへ渡り、王のために戦って信頼を得て、地方の統治をまかされた山田長政という人物がいた。
彼はタイでも有名と聞いていたが、知り合いのタイ人は1ミリも知らなかった。
でも、話をしているうちに、タイで山田長政は「オークヤー・セナーピムック」と呼ばれていたことが分かり、知人もその名前なら知っていた。
この名前もタイの王から与えられたニックネームだ。(タイの人名)
閑話休題(それはともかく)。
タイのニックネームの歴史は、スコータイ時代(13~16世紀)にさかのぼる。
当時、おそらく子どもの生まれた順番を表すために、「1」、「2」、「3」という意味のニックネームが付けられた。
その後、アユタヤ時代(14~18世紀)や現在のチャクリー王朝の時代には、外見や身体的な特徴から「赤い」や「太った」、または好ましい意味の「金」といったニックネームが付けられるようになる。
そして、19世紀後半ごろには、悪霊(malign spirits)から子どもを守るために、「Mah(犬)」、「Moo(豚)」、「Gop(カエル)」といった、人間にとっては侮辱的なニックネームを付けることもあった。
Conversely, unflattering nicknames such as Mah (‘dog’), Moo (‘pig’), or Gop (‘frog’) were employed to keep malign spirits from coveting the child.
タイではむかし、悪霊が子どもの魂を奪うという考え方があった。
それを恐れた親たちは、子どもに別の生き物の名前を付けることで、悪霊がその子を人間と認識しないことを期待したのだ。
世界の文化を紹介する「Cultural Atlas」では、立派な名前を付けると、嫉妬深い悪霊に目を付けられるから、親は子どもに悪い意味の名前を付けたと説明している。(Naming Conventions)
どっちにしても魔除けを目的として、わざと子どもに動物の名前を付けていたことは間違いない。
その考え方が残っているのか、現在のタイでも「豚」や「鶏」といったニックネームに持つ人がいる。
もし、タイにと出会って、「初めて。私はパンケーキです」「サンキューです」「イッキューです」と言われたら、この記事を思い出してほしい。
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