南北朝時代の武将・楠木正成に、インド人が感動したワケ

 

浜松に住んでいるインド人夫婦から夕食に招待されたもんで、彼らのアパートへ行ってきた。
「きっとカレーとチャイが出てくるんだろうな」と思ったら、やっぱりカレーとチャイが出てきた。
美味しいご飯を食べながら、彼らの東京旅行の話を聞いていると、夫が「そういえば」とナニかを思い出し、スマホで写真を探し始める。
それを見つけた夫が「この像の人物は誰なんだ? ものすごくかっこいいじゃないか!」と言うと、「それ! とても印象的な像だった」と妻も同意した。
インド人カップルが大絶賛した像がこれ。

 

 

この人物は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将・楠木正成(くすのき まさしげ)。
皇居外苑にあるから、東京観光をした外国人でこの像を目にする人は多いはず。
この楠木正成像は、上野公園の西郷隆盛像と靖國神社の大村益次郎像とならび、「東京の三大銅像」の一つとされる。
だから、このインド人夫婦のように、像のイケメンさに魅力を感じて写真を撮るだけでなく、彼がどんな人物なのか気になる外国人も多いと思われる。
彼らにもそんなことを聞かれたから、楠木正成の話をすると、「インド人はそういう人間が大好きなんだ」と感動したようす。
では、インド人の価値観からも、偉人と思われる彼の生涯について見ていこう。
キーワードは「忠義」だ。

 

知略に優れ、「日本の孔明」と称されることもある楠木正成

 

楠木正成は、後醍醐天皇に絶対的な忠誠を誓った武将で、江戸時代には「日本三忠臣」の一人に選ばれた。
現代の日本人に「忠臣と思う人物は?」というアンケートをしても、彼はまず間違いなく、上位3位に入る。
南北線時代から令和の現在まで(戦後の一時期は除く)、楠木正成は日本人の心の中で常に忠臣であり続けた。

彼は後醍醐天皇の「鎌倉幕府滅亡計画」に参加し、天皇が幕府側に捕まっても、赤坂城で幕府軍と戦った。
わずか500ほどの兵で数十倍もの敵を相手にして戦い、「すぐに終わるわ」と楽観していた幕府軍をほんろうする。
この「赤坂城の戦い」の奮戦で、無名だった楠木正成の名は全国区となった。

その後、後醍醐天皇が隠岐の島から脱出すると、正成は馬に乗って駆けつけ、兵庫のあたりで天皇を出迎えた。
皇居外苑にある彼の像はそのときの姿。
手綱を引いて馬を止めるところで、この後、彼は天皇に平伏したのだろう。
そして、正成には後醍醐天皇を京都へ先導する名誉を与えられた。
彼に「天皇の盾」というイメージができたのは、きっとこの出来事の影響が大きい。

楠木正成、新田義貞、足利尊氏の武将たちの活躍によって、鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は「建武の新政」を始めたが、貴族中心の政治に武士が怒って離反する。
足利尊氏が天皇に反旗を翻し、多くの武将が尊氏サイドについても、正成は天皇に忠誠をつらぬき、足利軍と戦い続ける。

 

しかし、足利軍はとても強く、状況は絶望的だった。
正成は人生最後の決戦となる「湊川(みなとがわ)の戦い」に向かう際、死兆星を見たかは知らんけど、みずからの死を感じ、息子の正行にこんな別れの言葉を述べたという。

「今生にて、おまえの顔を見るのも今日が最後かと思う」

1336年7月4日、湊川(現在の神戸市)で、九州からやって来た足利軍と、迎撃のために京都から来た新田義貞&楠木正成の軍がぶつかり、戦闘がはじまる。
この「湊川の戦い」で、正成は鬼神のような戦いっぷりを見せたが、足利軍に勝つことはできず、最期は自害して果てた。
ちなみに、太平洋戦争のとき、日本軍で「湊川」は勝ち目のない戦いを指す言葉となった。
この時代の「これは湊川だよ」という言葉を現代風に訳すと、「これはインパール作戦だよ」とか「無理ゲーにきまってる」となる。

 

尊氏にとって正成は最大級の敵で、何度も苦しめられたにもかかわらず、尊氏は正成の首を丁寧に扱い、遺族へ渡した。
強くまっすぐに生きた正成に、尊氏が敬意を持っていたからだろう。
その後、正成は「多聞天王(軍神)の化身」や「日本はじまって以来の名将」と称賛され、江戸時代には「日本三忠臣」に選ばれた。
日本において、彼に対する評価は時代を超えて常に高い。

 

湊川の戦いで、伝説的な名刀「鬼切・鬼丸」を左右の手に持って戦う新田義貞

 

インド・ラジャスタン州にあるメヘラーンガル城
個人的には、「デカい、固い、重い」という印象を受けた。

 

「おそろしく強く、主君への忠誠をつらぬいた戦士」というのは、どこの国でも尊敬される。
しかし、知人のインド人カップルが楠木正成に特に感動したのは、彼らがラジャスタン州出身で、ラージプート・カーストの人間だったから。
ヒンドゥー教のカースト制度で、王族や武人の階級を「クシャトリヤ」と呼ぶことは、学校の授業でならったはず。
ラージプートもクシャトリヤと同じ戦士階級で、彼らは、自分たちがその子孫であることを誇りとしていた。

そんな人間の価値観からすると、楠木正成のような生き方はどストライクだ。
インド人の夫の話では、領土を広げたり、美女や金を得たりするために戦うことは悪くないが、殺戮(りく)や破壊が好きで、その快感を求めて戦う人間は最低最悪。
ラージプートにとって最も素晴らしいのは、野心や私利私欲ではなく、国や主君、宗教を守るといった大義のために命をかけて戦うこと。
だから、楠木正成のような戦士は国籍や宗教に関係なく、素直に尊敬できると言う。

楠木正成が誇り高い戦士であることと、像の見た目のカッコよさから、インド人夫婦にとってこの写真はお気に入りの一枚となった。

 

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。