日本にいる外国人なら、まず間違いなく「サムライ(ブシ)」を知っている。
そのほとんどの人のイメージは、「昔の日本にいた刀で戦う人たち」ぐらいの大まかなもので、日本の歴史を勉強した外国人のなかには理解を深めたことで、「将軍と天皇の違いが分からない」と首をひねる人がたまにいる。
「エンペラー」である天皇は日本の頂点に立つ人物で、将軍は日本中にいる武士のトップでしかない。
でも日本史の本を読むと、日本の政治や経済を動かしていたのは将軍で、天皇は何をしていたのかよく分からない。
将軍を英語にした「general」は軍のトップで、エンペラーの下にいる存在だから役割はまったく違う。
だから日本には将軍と天皇の2つのトップがいるみたいで、「どっちが偉いのか?」「それぞれどう違うのか?」ということが分からない。
と、そんなことを話すアメリカ人もいた。
将軍と天皇がゴッチャになるというのは、朝廷と幕府(武家政権)の区別がついていないからだ。
武士は刀を持って戦うことだけではなくて、政治家の役割も果たしていたから外国人には分かりづらい。
では日本の武士は、いつから政治の世界に首を突っ込むようになったのか?
2022年7月29日、いまの時期は「大暑」だから分かってるけど、やっぱり今日もクソ暑い。
1156年に保元の乱が起きた7月29日も、ムシ暑い一日だったに違いない。
このとき京都の朝廷が後白河天皇サイドと崇徳(すとく)上皇サイドの真っ二つに分かれ、それぞれに武士が味方して争う。
結果、敗北した崇徳上皇は讃岐(現在のうどん県)に流されて、後白河天皇は反対派を一掃することができた。
でも、朝廷内の争いで一番得をしたのは武士だ。
武器を持って実際に戦ったのは武士だったから、後白河側についた源 義朝(よしとも)と平清盛は乱の後、天皇の信頼を得て重用されるようになる。
こうして中央政府における武士の存在感は増して、政界へ進出するようになっていく。
ちなみに源義朝は、鎌倉幕府をつくった頼朝の父ちゃんだ。
武士の影響力を増大させることになった保元の乱は、その後約700年間つづく武家政権が誕生する大きなきっかけになる。
だから僧の慈円(じえん)は、「見える!わしには見えるぞ」と言ったのかは知らんけど、この乱が「武者の世」の始まりだと見抜いた。
慈円は歴史書の『愚管抄』で保元の乱は、日本の政治の権利が貴族から武士へ移る歴史の転換点だったと論じる。
この動乱が収まると、朝廷内では次の権力争いがぼっ発。
懲りないねー。
後白河法皇の側近の信西(しんぜい)と藤原 信頼(のぶより)が対立すると、平清盛は信西サイドにつき、信頼についた源義朝と戦う平治の乱が1159年に起こる。
結果、信西も藤原信頼も殺されて、後白河法皇は生き残ることはできたものの、貴族と貴族が殴り合って共倒れの状態になり、平清盛が最終的な勝利者となる。
つく相手を間違った源義朝は、逃げ延びる途中で家来に殺害された。
その後、武士として初めて太政大臣に昇りつめ、日本の最高実力者となった平清盛は平氏政権をスタートさせる。
*この平氏政権を日本初の武家政権とする見方もアリ。
「平家じゃなれば人間じゃねえ(この一門にあらざれば人非人たるべし)」と、平時忠(ときただ)が豪語したとされるのはこの時期のこと。
そんな平家の栄光も、1185年に源義経とかいう天才武士が海の底に沈めてしまう。
平時忠はこの壇ノ浦の戦いで捕虜になり、能登へ流されそこで死ぬ。
平家を一掃した源頼朝は鎌倉幕府を開き、武家政権はその700年ほど続くこととなる。
慈円が武士の世の中の始まりとした、保元の乱が起きたのは7月29日。
この日は1221年に、鎌倉幕府によって仲恭(ちゅうきょう)天皇が退位させられ、後堀河天皇が即位した日でもある。
この年、後鳥羽上皇を中心とする朝廷側と鎌倉幕府との戦いがあって(承久の乱)、勝利した鎌倉側は3歳だった仲恭天皇を退位させ、10歳の後堀河天皇を即位させた。
両天皇とも、ナニがなんだか分からなかったと思われ。
日本の歴史上、朝廷と幕府が直接対決をしたのはこの承久の乱だけだ。
これに勝利し、天皇の退位や即位を意のままに決められるようになったこのとき、武士による日本支配は決定的になった。
ラクダの頭をテントに入れるのを許すと、テントをすべて取られてしまう。
そんな言葉がアラブにあるらしい。
保元の乱で武士を利用し、政界進出のきっかけをつくったことがすべての始まりだ。
それでいま外国人が「ジェネラルとエンペラーなら分かるけど、将軍と天皇の違いが分かりませんっ!」と苦労している。
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