なるほどナルホド。
きょう12月11日は、1931年に「イギリス連邦」が発足した日だったか。
これによって、イギリス本国は自治領のカナダ、オーストラリア、南アフリカなどに対し、優越的な立場にないことがはっきり確認された。
もともと自治領はある程度の自治権を持っていて、半独立状態にあったから植民地とは違うけど、イギリスの統治下にはあった。
しかし、1931年にイギリス連邦が成立すると、平等な立場になり、それぞれの自治領で議会が独自の法律を制定することができるようになる。
ただ、自治領も英国王への忠誠を誓っていて、それがイギリスと自治領を団結させていた。
これが現在の「コモンウェルス」(イギリス連邦)の前身となる。
イギリスが自治領との関係を見直したのは、第一次世界大戦(1914年〜18年)の影響が大きい。
このとき各自治領は兵士を送るなどして、イギリスの勝利のために貢献した。
となると、その「見返り」を求めるのは当然で、自治領はイギリス本国と“対等”であると考えるようになり、より強い発言権を要求する。
イギリスは仕方なく、一定の独立性を与えることにした。
といっても、自治領はもはや実質的には独立国だった。
「三・一運動」のきっかけになった高宗の葬儀
日本では第一次世界大戦の後、1919年3月1日に統治下の朝鮮で独立を求める運動がおきた。
これが「三・一運動」と呼ばれる出来事で、現在の韓国が成立したのは1948年とされているが、韓国には「三・一運動」のあった1919年と主張する人もいる。
韓国にとって「三・一運動」は、憲法にも書かれている重要で画期的な出来事である一方、北朝鮮では「失敗したブルジョワ蜂起」と否定的に評価されている。
同じ民族でも見方はまったく違うのだ。
ちなみに、この運動での死者は、韓国の独立運動家は7509人と発表したが、朝鮮総督府の集計によると553人と13倍以上と大きな差がある。
真実は不明だが、どちらか一方の数字だけを見せるのは、不公平であることは間違いない。
大韓帝国の初代皇帝・高宗の葬儀が3月3日に行なわれる予定になっていて、それに合わせて、宗教指導者らが京城(現在のソウル)で独立運動を行う計画を立てていたという。
実際には3月1日に彼らが集まって、「独立宣言」を読み上げた。
この動きから、京城で「独立万歳」と叫ぶデモが発生し、やがて朝鮮全土に広がって暴動となり、警察署や小学校が襲われ、建物が破壊されたり人が殺されたりした。
朝鮮総督府はこれを武力で鎮圧する。
この独立運動は日本に大きな衝撃を与え、朝鮮統治の考え方や方法を変えさせた。
力による武断統治から一転し、集会や言論に一定の自由を認めるなど、文治的な統治が導入され、朝鮮人と日本人が“同じ”であるという「同化政策」が進められていった。
3・1運動に対する見方は、日本では一般的に「暴動」とされていたが、それだけではい。
たとえば吉野作造は、朝鮮の人たちに政治的自由を与えるべきと主張したし、宮崎滔天は朝鮮人の自由と権利を尊重し、いつか独立を認めるべきだと述べた。
歴史の「タラレバ定食」では、やよい軒の“ご飯おかわり自由”と同じで、想像はいくらでもしていい。
もしも、「3・1運動」の後、日本が朝鮮に対し、独自の法律を制定するなどの自治権を認めて「日本連邦」が成立し、朝鮮がその後、段階的に独立していったら、きっと日韓はいまごろ歴史問題で大モメになることはなかった。
イギリスとカナダやオーストラリアみたいに、平和で友好的な関係を築いていたかも。
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