きょう12月16日は「電話創業の日」。
1890年(明治23年)のこの日、日本で初めて東京と横浜で電話が開通したことを記念して、この日がつくられた。
料金は定額制で東京市内で 40円、横浜市内では 35円だったから、当時は1円で15キログラムのお米が買えたことを思うと、電話ができたのは日本の VIPだけだったはず。
時代が進んでいまでは庶民でも、無料で海外にいる人と話ができるのだけど。
このころの日本は文明開化の真っ最中。
1872年に初めて鉄道が開通したのも、電話と同じく東京(新橋)と横浜の間だった。
明治日本の近代化は、この2つの都市を中心に進められていたらしい。
日本は近代化に成功し、自由と独立を守りぬことができたが、19世紀の世界では、そういう国はラッキーな部類に入る。
たとえば、そのころインドはイギリスに支配されていた。
日本で鉄道が開通してから数年後、インドでは500万人以上が亡くなり、もはや「虐殺」と言っていいような深刻な飢饉が発生させられた。
イギリス植民地政府が地元の事情を無視し、収穫された穀物をバンバン海外へ輸出したことで、多くの民衆が餓死の苦しみに直面したと言われている。
自然に発生したというより、この飢餓状態はイギリスによって引き起こされた面が大きい。
やせ細り、骨と皮だけになったインドの人たち。
もし、日本も植民地にされていたら、こういう状態に追い込まれていたかも。
もちろん、植民地支配にはダークサイド(暗黒面)だけではなく、ライトサイドもある。
イギリスがインドにした“良いこと”について、インドの人たちがよく指摘するのは、鉄道を導入したり、教育制度を整えたりして、近代化をもたらしたこと。
いまのインド鉄道は、その時代の鉄道を発展させたものだ。
イギリスがインドに伝えた近代化はほかにもある。
以前インドを旅行中、こんなことがあった。
一緒にいた日本語ガイドの携帯が鳴って、ガイドは耳に当てて「ハロー」と言ってから、後はヒンディー語で会話をはじめる。
それを見て、「なんでそこだけ英語なんだよ。カッコつけてんじゃねえよ」と鼻で笑ってしまった。
まぁ、変に英語を使いたがる人は日本にもいる。
考え方や行動などで白人の“フリ”をするアジア人を、肌は黄色で中身は白人という意味で「バナナ」と呼ぶことがある。
もちろん、これは相手をバカにした表現。
インド人にも“バナナ”はいるのかと思ったら、じつはそうじゃなかった。
彼に話を聞くと、インドに電話をもたらしたのはイギリス人で、彼らが「ハロー」と言っていたから、現在のインド人も電話に出るときはその言葉を使うようになったという。
このとき、ガイドが当時のイギリス人を「マスター」と呼んでいたのが印象的だった。
たしかに注意して聞くと、インド人は電話に出るときに「ハロー」と言っている。
こんなところにも、植民地支配の影響が残っているとは思わなかった。
同じことは、かつてフランスの植民地だったベトナムでもあった。
ベトナム人のガイドが「アロー」と言って電話に出るのを見て、インドでの出来事が思い浮かぶ。
話を聞くと、やっぱり、ベトナムでもフランス語の「Allo(もしもし)」が「Alo(アロー)」というベトナム語になったという。
ちなみに、鉄道もフランス人が導入したものだから、駅はフランス語の「gare」をそのまま受け入れて、ベトナム語でも「ga(ガー)」と呼ばれている。
フランス植民地時代のダークサイド
反仏運動をしていたベトナム人を処刑したギロチン。
日本人は電話で「ハロー」や「アロー」ではなくて、「もしもし」という日本語を使っている。
この表現は、「もしかしたら、相手はいないかもしれない」という意味で、「if if」に由来すると言われる、ワケがない。
元ネタは「申す申す」で、「いまから私が話しますよ」といった意味だ。
この言葉を考えたのは、明治時代の技師・加藤木 重教(しげのり)と言われている。
彼はアメリカで電話の仕組みについて学び、英語の「ハロー」に代わる日本語として、「もしもし」を爆誕させたという。
日本には異民族に支配された歴史がない。
「マスター」のような存在はなく、日本人が電話を導入したから、こんな新しい日本語も作らないといけなかった。
電話で使う言葉から、日本とヨーロッパの植民地だった国々との歴史の違いが見えてくる。
加藤木 重教
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