【漢字文化】中国皇帝・王莽と煬帝のこの嫌われっぷり

 

ウィキペディアによると、きょう1月10日は約2千年前の紀元8年に中国で前漢が滅び、王莽(おうもう)が「新」を建国した日。
この皇帝は政治家としてはダメダメで、国内を混乱させた挙句、新をたった15年で滅亡させてしまった。
その後、漢が復活し、「後漢」として新しい時代がはじまって、日本人が好きな三国志につながっていく。

後世の人たちは、帝位を奪った王莽を「簒奪者」と強く非難した。
彼の嫌われっぷりは「莽」の漢字にも表れていて、草かんむりの下の部分は「大」ではなく、じつは「犬」なのだ。
中国語の「大人」は、日本語とは意味が違って「立派な人間」を指し、人間に対して「犬」を使うときはムゴイ侮辱や軽蔑を表す。
つまり、王莽はあまりに無能で卑怯な人間だったから、昔の中国人は彼を“人間以下の生き物”と考えていたと思われる。

 

王 莽(前45年 – 23年)
「無能」のイメージが強いことへの反動か、近年では王莽を再評価する動きもある。

 

漢字は「abc」などの表音文字と違って、それぞれの文字が意味を持っているから、善意や悪意、軽蔑や敬意といったさまざまな気持ちを表現することができる。
仕事を「志事」、起業を「輝業」と変換すると、なんかポジティブな気分になれるのが漢字マジック。
日本では、人材を「人財」と書く会社がよくある。
ただ、仕事ができず、周囲に迷惑をかけるような従業員は「人罪」と呼ばれることもあるらしい。
昭和の時代、ある暴走族が自分たちの強さや怖さが伝わるような表現を考え、あれこれ試行錯誤した結果、「夜露死苦(よろしく)」のワードが爆誕したという。
漢字は表意文字だから、いろいろなイジり方があるのだ。

 

話を中国に戻すと、隋の2代皇帝・煬帝もかなり嫌われた。

 

煬帝(569年〜618年)

 

この皇帝は日本と深い関わりがある。
聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣し、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」ではじまる国書を渡した。
これは、日が昇る国(日本)の天子が、日が沈む国の天子に書簡を送るという意味。
天皇と皇帝を同格に表現していたから、煬帝は「このような無礼な書を見せるな」と怒ったという。

そんな煬帝は国内でこんな失政をやらかす。

・約1500kmという空前絶後の大運河をつくらせ、人民を牛や馬のようにこき使った。
・さまざまな戦争を行い、特に高句麗遠征では30万の大軍を送り、「死せる者、十に八九」という大敗北に終わった。

煬帝は「人なら畑でいくらでもとれる」みたいなレベルで、人命を軽視していたのだろう。
彼が国を私物化し、好き放題した結果、民衆は疲れ果て、食べ物が無くなって社会は「ヒャッハー!」の世紀末状態となる。
国内の憎悪を浴びた煬帝は、最期には謀反が起きて処刑された。
(小野妹子はよく生きて帰国できたな)

 

煬帝は、生きていたときは「楊帝」と名乗っていた。
でも、次の唐の時代になってから、「色を好んで礼を無視した、礼に背き人民から嫌われたもの、天に逆らい人民を搾取したもの」という意味の「煬」の字が与えられ、それが彼の名前となった。
煬帝も本来なら「ようてい」と読むのに、彼がほかの皇帝とは次元の違う暴君であることを強調するために、「ようだい」と読むようになったという。

国名の「隋」は最初は「隨」と書かれていたが、初代皇帝の文帝が「辶」は「走」に通じ、「王朝がすぐ滅亡する」ということを連想させると言って、「隋」にしたという説がある。
それでも隋は2代で終わり、王朝は40年も続かなかったけれど。

 

とうことで、中国皇帝の王莽や煬帝から、暴走族の夜露死苦まで、表音文字としての漢字文化についてお分かりいただけただろうか。
もし、日本で政治家の当て字を考えるゲームがあったら、きっと大喜利状態になる。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。