天正遣欧少年使節と八紘一宇、日本/欧州の考え方の違い 

 

2月20日は、1582年に日本の4人の少年を乗せた船が長崎港を出発した日。

彼らが「天正遣欧(てんしょうけんおう)少年使節」で、九州のキリシタン大名の代わりにローマへ派遣された。
この4人は、ヨーロッパへ行へ行き、戻ってきた初めての日本人と言われる。
キリスト教徒だった彼らはヨーロッパで大歓迎され、スペインでは国王フェリペ2世のおもてなしを受け、ローマでは教皇グレゴリウス13世に謁見し、ローマ市民権を与えられた。

日本人をヨーロッパへ派遣しようと考えたのは、イエズス会の宣教師だったヴァリニャーノ。
ヴァリニャーノは日本の少年たちに、西洋社会やキリスト教世界を体験させ、その偉大さを理解させようとした。
そして帰国後、少年たちがヨーロッパの素晴らしさを語ることで、キリスト教の布教に役立てることを期待した。

この時代、ヨーロッパ諸国はアフリカや南米、アジアなど世界各地に宣教師を派遣し、キリスト教を広める努力をしていた。
自分たちが海外へ行ったり、外国人を招いたりして、自分たちの思想や文明を積極的に外国人に伝えようとする。
日本人にはそんな発想や行動力がなかった。

 

右上は伊東マンショ、右下が千々石ミゲル、左上は中浦ジュリアン、左下が原マルチノ
真ん中にいるのはヨーロッパ人の神父

 

少年たちが戻ってきた後、豊臣秀吉はキリスト教追放令を出し、江戸時代になると日本は「鎖国」政策をはじめた。
ヨーロッパで交流を認めた国はオランダだけ。
江戸時代の日本人が外国人に、日本の思想や文明の素晴らしさを伝えようとしたなんて話は聞いたことない。そんなことをしてもメリットがない。
外国人を招待するどころか、許可なく日本へ入ってくる外国人がいたら、最悪の場合は処刑された。
自国民が海外へ行くことも、海外から戻ってくることも禁止した。
この点、積極的に海外へ進出し、各地に拠点を築いてキリスト教を布教したヨーロッパ人とは対照的。

 

以前、タンザニア人とルワンダ人と日本のレストランで食事をしたとき、キリスト教徒だった彼らは、胸の前で十字を切ってから料理を食べはじめた。
これも、ヨーロッパ人がした布教の結果だ。
数百年前の日本人に、外国人を「日本人化」させる発想はなかった。
しかし、例外はある。

 

「八紘一宇」の文字のある記念切手

 

太平洋戦争の時期に、日本政府は「八紘一宇(はっこういちう)」の理想を掲げた。
八紘は「全世界」、宇は「家」のことで、「八紘一宇」は「世界を一つの家にする」といった意味になる。
当時の日本は、天皇を中心に世界を一つの家のように統一するという、現代からみると、とんでもない現実離れした考えを持っていた。
それでも、そのころの日本は“ガチ”で、外国の代表を東京に招いてその思想のスバラシサを伝えようとした。

かつてのヨーロッパは宣教師を海外へ派遣したが、日本は「八紘一宇」をスローガンに東南アジアへ軍隊を送り、大きな被害をもたらした。
ただ、現地のイギリス、フランス、オランダの軍隊と戦って疲弊させたことで、結果的にアジア各国の独立を加速化させた面はある。
日本が自分たちの考え方を海外に広めようとしたケースは、日本史の中では例外的だ。

「八紘一宇」は失敗に終わったし、日本人に基本的に、外国人に日本の思想を伝えることがうまくない。
いまでも先進国G7の中で、日本がリーダーシップをとる場面は少ないと思う。

 

東京の大東亜会議に参加した各国首脳
左から、ビルマ、満洲国、中華民国、日本、タイ王国、フィリピン、インドの代表。

 

日本は東京で大東亜会議を開催し、アジア各国の首脳を招いて日本の考え方の素晴らしさをアピールした。が、これによって、日本の思想がどのぐらい各国に伝わったかはナゾ。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。