仏印進駐:日本が戦争不可避となった「瞬間」 

 

1941年6月22日に独ソ戦がはじまったことをうけて、同じ年のきょう7月2日、日本が進むべき方向が決定した。
陸軍は北方のソ連を仮想敵国とみなし、これから本格的な戦闘準備を整えることとなり、海軍は東南アジアへ進出することとなる。
7月2日、近衛文麿(このえふみまろ)を首相とする第2次近衛内閣で、この二正面作戦を行うことが決められた。(情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱

その4年後、2発の原子爆弾を落とされ、日本はアメリカに降伏する。その未来を知っている現代の日本人からすると、この国策はまさに終わりの始まりだ。
太平洋戦争では、日本人だけで約300万人の犠牲者がでた。
今回は、日本がその戦争をはじめた原因や、戦争を避けられなくなった「瞬間」 について書いていこう。

 

当時の日本人はそんなことを夢にも思わず、陸軍は独ソ戦の展開しだいでは、いつでもソ連に攻め込む態勢ができていた(関東軍特種演習)。
一方、海軍は7月28日にフランスが統治するベトナム(仏領インドシナ)に進軍し、そこを拠点とする。
当時、日本は中国と戦争中で(日中戦争)、この戦いが予想外に長引いた結果、資源が不足するようになってしまった。
資源が無くなれば、そこで戦争はジ・エンド。
それで日本は東南アジアの資源に目をつけ、その足掛かりとして、仏領インドシナを制圧した。

日本軍の行動範囲が広がれば、当然アメリカやイギリスが反発する可能性は予想されていたが、近衛首相も陸海軍も「米英が怒ったとしても、きっと大したことはない」と高をくくっていたらしい。
しかし、アメリカは日本の仏印進駐に激怒し、「仏領インドシナと中国からの軍を撤退させろ、今すぐにだっ」と日本に伝え、石油の輸出を禁止した。
当時、日本は石油の約 70%をアメリカから輸入していた。
それが停止されたら、備蓄してある石油が無くなった時点で、艦船も飛行機も動かせなくなり、日中戦争は敗北するしかない。
「あきらめたら、そこで試合終了ですよ」という精神論ではなく、戦争継続は物理的に不可能だ。
「おまえに回す石油はねえ」というアメリカの通告は、日本にとってはまさに死亡フラグ。
日本の政府も軍も、アメリカがまさかここまでするとは予想していなかったため、大きな衝撃をうけた。

そしてこの後、

アメリカ「仏領インドシナから日本軍が撤退しろ」
日本「だが断る! でも、日中戦争が終わったら撤退してもいいよ」
アメリカ「それでは回答になっていない。今すぐ軍を引け」

といった日米交渉がおこなわれたが、結局はうまくいかず。
最終的には国務長官のコーデル・ハルから、中国と仏領インドシナからの軍の撤兵や日独伊三国同盟の破棄などを要求する、いわゆる「ハル・ノート」を突きつけられた。
これは日本にとって、絶対に受け入れ不可能な条件だったから、「こうなったらやるしかない」とアメリカとの戦争を決意し、その年の12月に真珠湾攻撃をおこなった。

戦後、昭和天皇はこの時を振り返って、次のように述べられた。

「実に石油の輸入禁止は日本を窮地に追込んだものである。かくなつた以上は、万一の僥倖に期しても、戦つた方が良いといふ考が決定的になつたのは自然の勢と云はねばならぬ」

 

その一線を越えると、もう元には戻れない。
そんな場所や状況のことを「ポイント・オブ・ノー・リターン」という。
日本軍が仏領インドシナへ進軍し、そこにとどまったことで戦争は不可避となった。
だから、日本にとっては、この「仏印進駐」が太平洋戦争におけるポイント・オブ・ノー・リターンになる。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。