【信仰の自由】日本とヨーロッパ世界の価値観・歴史の違い

 

では今回は、日本人とヨーロッパ人の価値観の違いと、そこから生まれた歴史の違いについて書いていこう。

7月4日は、1187年にイスラム世界の英雄・サラディンがキリスト教徒の軍(十字軍)と戦って勝利し、聖地エルサレムを奪還した日。
このヒッティーンの戦いで、キリスト教の戦士たちがおかれた状況は“哀(あわ)れ”のひと言。
5人の騎士がイスラム教の指導者のもとを訪れ、最後の願いとして「慈悲深く(できるだけ苦痛のないように)殺してほしい」と懇願したという。

Their plight was such that five of Raymond’s knights went over to the Muslim leaders to beg that they be mercifully put to death.

Battle of Hattin

 

この戦いで敗北したヨーロッパでは、聖地エルサレムをイスラム教徒の手から奪い返すため、キリスト教徒による第三回十字軍が結成され、エルサレムへ向うも、サラディンを倒して聖地を取り戻すことはできなかった。

そんなヒッティーンの戦いから、約150年後、日本では東勝寺合戦がおきた。
1333年の7月4日、新田義貞が鎌倉に攻め込み、東勝寺に立てこもっていた執権・北条高時と一族が「もはやこれまで、来世で会おう」と自害した。
このとき 800人以上が自刃したという説もあるから、現場はこの世の終わりのような状況だったに違いない。
キリスト教の戦士たちが敵軍に「やさしく殺してほしい」と頼んだのは、キリスト教の教えで自殺が禁止されていたからでは?
こんなところにも、日本人との価値観の違いが表れている。

東勝寺合戦によって鎌倉幕府は滅亡し、次に後醍醐天皇の時代がやってきた。
しかしこの後、後醍醐天皇は足利尊氏と対立し、1336年の7月4日、足利尊氏&直義兄弟の軍と、後醍醐天皇サイドの新田義貞&楠木正成の軍による湊川の戦いがぼっ発。
これに負けた後醍醐天皇は吉野へ逃げ延び、日本に天皇が2人同時に存在する南北朝時代がはじまる。

 

ということで、日本とヨーロッパの歴史の違いがおわかりいただけただろうか。
ヨーロッパでは、信仰が動機になって戦いが何度も起きて、大地が血に染まり、おびただしい数の命が失われた。
(「宗教は平和を築くためにある」というお花畑理論は、少なくともこの時代には通じない。)
ということで、日本とヨーロッパの歴史の違いがおわかりいただけただろうか。
十字軍の遠征は1095年から 1291年まで、約 200年にかけて7回(または8回)おこなわれた。
これによる死者数には諸説あって、正確な数はまさに God knows(神のみぞ知る、人間にはわからない)。
参考までにウィキペデアを見ると 100万人とある。(人為的な要因による死者数一覧
ある海外サイトには 170万人とあり、十字軍の遠征では 100万人以上が犠牲になったと考えてよさそうだ。

ヨーロッパの中でも、神の名のもとに起きた争いは何度も起きている。
1209年には、フランス南部で正統派(カトリック教会)と異なるキリスト教の信仰をしていた集団(カタリ派)がいたため、ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけで十字軍が結成され、大虐殺がおこなわれた(アルビジョワ十字軍)。
その後、16世紀にドイツで宗教改革がはじまり、新しいキリスト教のグループであるプロテスタントが生まれると、ヨーロッパでは彼らとカトリック教徒による本格的な宗教戦争の時代に突入する。
三十年戦争(1618年–48年)だけでも 800万人以上が犠牲になった。
同じ神を信じていても、「違い」は許すことができない。異分子(異端)を地上から消し去ることが、正義であり義務でもあると考えたのだろう。

 

一方、日本では「誰がこの国を統治するか?」という政治的権利をめぐる争いは何度も起きたけれど、宗教を原因とする戦いは、(一向一揆などがあったからゼロではないが)ヨーロッパの歴史に比べれば本当に少ない。
ヨーロッパのように、ローマ教皇や王や各地の領主(日本でいうなら天皇や大名)が信仰の違いを理由に、戦争を起こしたという話は聞いたことがない。
ただし、例外はある。
戦国時代の末期、宣教師が来日してキリスト教を広めると、九州の大村純忠(すみただ)が初めてキリシタン大名になった。(彼が長崎港を開港したのはマメ。)
熱心なキリスト教徒になった彼は、自分の領地にあった寺や神社を破壊し、領民にもキリスト教の信仰を強制したり、僧や神官を殺害したりした。改宗を拒否する領民は殺されたり、奴隷として売り飛ばされることもあったという。
「異教を滅ぼすことが正義、それが神への奉仕になる」と、大村は考えていたのだろう。

 

キリスト教(カトリック)では、信者が守るべき重要な教え(十戒)の一番最初に、「わたしのほかに神があってはならない」とある。
一神教では信じる神は一人だけで、“そのほか”は認められないから、「自分との違いは間違い」といった排他的な傾向がある。
21世紀の地球には寛容の精神が広がっているが、数百年前のキリスト教世界では、「異教徒や異端は存在してはならない」といった独善的で残酷な考え方があった。
日本では古代から、信仰の自由が認められていたから、宗教の違いは争いの原因になることは本当に例外的だった。
大村純忠が「闇落ち」したのは、西洋世界の闇の部分(極端な独善性や排他性)に触れ、それを正義と誤認したからだろう。
そんな考え方は日本人の価値観に反し、共存することはできなかったから、豊臣秀吉や徳川幕府によって日本から排除された。

 

 

日本 「目次」

ヨーロッパ 「目次」

キリスト教 「目次」

【日本人と西洋人の発想】アマビエとキリスト教の守護聖人

16世紀・日本とフランスの分水嶺 清洲同盟とユグノー戦争

【信仰と弾圧】自ら離れるヨーロッパ人・追放される日本人

 

1 個のコメント

  • 理論的には、ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も、唯一絶対の「神」は同一の存在であるはずなんですが。それがどうして、異なる「契約」の基で、異なる「預言者」や「教団組織」に率いられた信者たち同士で争い殺し合う必要があるのですかね? 彼らの「神」とやらが、そうしろと、本当に指示したのですか? 誰かが間違ったメッセージを伝えているのでは?
    一神教とは、人類が創造した文化・思想の上で最大の誤謬なのかもしれません。

    その一方で、高度な文明を謳歌し繫栄した古代ギリシャ、ローマ、あるいはエジプト文明、インダス文明など、いずれも多神教の社会でした。中世暗黒時代を脱する契機となったルネッサンス(古典文芸復興)も、結局は、古代ギリシャやローマの文化を見直す運動であったとも言えます。政治体制と同様、思想だって、独裁よりは民主主義の方が優れたシステムであると思いますけどね。
    少なくとも宗教に関しては、古代から人間は少しも進歩してないのかなぁ。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。