日本の小学生が必ず教わる外国人のツートップが、戦国時代のフランシスコ・ザビエルと幕末のペリー。
1853年のきょう7月8日、ペリー率いるアメリカ軍の艦隊、蒸気船2隻を含む4隻の艦船が江戸湾の入り口にあたる浦賀に現れた。(黒船来航)
黒く巨大な艦船を見て江戸は大騒ぎとなり、
「泰平の 眠りをさます上喜撰 たった四盃で 夜も寝られず」
という狂歌がはやった。
上喜撰(じょうきせん)とは宇治の高級茶のことで、蒸気船にかけたシャレになっている。さらに、カフェインが含まれているお茶を飲んで眠れないことと、蒸気船が来て不安で眠れないこともかけている。
では、この時、ペリーは何を感じ、考えていたのか?
黒船の1つ、ミシシッピ号
1853年5月17日にペリー艦隊は中国の上海を出航し、5月下旬に琉球王国に到達した。
ペリーは那覇沖に艦隊をとめ、首里城を訪問したいと伝えたが、琉球側はこれを拒否。
すると、ペリーはそれをガン無視して上陸すると、武装した兵を連れて市内を威圧しながら進み、首里城まで行った。
琉球側はしぶしぶお茶とお菓子でもてなし、ペリーは開国を求める大統領の親書を渡した。
そして、ペリーたちは6月に出航し、7月8日に米艦隊が江戸のすぐ近くの浦賀に現れた。
彼らを最初に見つけたのは漁船に乗っていた漁師たちだった。
彼らにとっては、時速14~16キロほどで進むこの船団は、この世のものとは思えなかったかもしれない。
この時、ペリーからはこう見えた。
彼らは船の上に立ち上がり、日本の海に最初に登場した蒸気船を、驚愕の色をあらわにして眺めていた。
艦隊が湾内に入ると、漁船はますます警戒の色を見せたが、その中の一隻が蒸気船に追いつかれてしまった。船上の人々はおそろしく興奮した様子で、幅の広い帆を下ろすと、艦隊から離れようと懸命に櫓を漕いだ。「ペリー提督日本遠征記 上 (M・C・ペリー; F・L・ホークス) 角川ソフィア文庫」
やがて、幕府の役人を乗せた番船が近づいてきた。
それらは白木造りのの船で、ペリーたちは「番船の船型の美しさには、誰もが感嘆の念に打たれた」と感動したという。
その美しい船がすいすいと軽快に海上を進み、サラトガ号の横につけ、日本人が強引に登ろうとしたが、水兵たちが短剣やピストルを見せて拒否の意思を示したため、乗船をあきらめた。
日本側が乗船の許可をせまったが、ペリーは以下の理由でそれを拒否する。
艦隊の司令長官という役職は合衆国では最高位のものであり、長官は浦賀の最高位の役人とのみ協議するつもりだと言い聞かせた。
米艦隊はペリーの指示で各員が持ち場につき、大砲には弾薬が配備され、小銃が準備されていて、いつでも戦闘を開始する準備ができていた。これはブラフ(はったり)ではなく、本気だった。
ペリーは武力行使をちらつかせながら、日本人と交渉をおこなうことを考え、浦賀では実際にその方針で行動していた。
幕府側から、艦隊はここから撤退して長崎へ行くようにと求められても、ペリーは琉球の時と同じように、それを無視して浦賀沖で停泊をつづけた。
そして、幕府の役人が何を言っても、「浦賀の最高位の役人とのみ協議するつもりだ」という主張をくり返し、最終的にはそれを実現させ、開国をうながす大統領の親書を幕府側に手渡すことに成功する。
こうしてペリーはミッションコンプリートして、アメリカへ戻っていった。
「泰平の 眠りをさます上喜撰 たった四盃で 夜も寝られず」と日本が大騒ぎになったのは、黒船艦隊が江戸を攻撃するというウワサが広まったからだ。
そんなことは起こらなかったが、ペリーにはその覚悟はできていた。
コメントを残す