1851年に清で、太平天国の乱という大反乱がぼっ発した。
リーダーの洪秀全は太平天国を建国し、皇帝に対して自身を「天王」と称する。清朝政府への独立宣言だ。
清は1840年に起きたアヘン戦争でイギリスにボッコボコにされて、まだダメージが回復していなかったから(洪秀全はそれ狙ったのだろうけど)、この反乱をすぐに鎮圧することができなかった。
福建省にある「土路楼」と呼ばれる集合住居
破壊されている部分は、太平天国の軍隊と戦った時のもの。
不幸は友人を連れてやってくるという。
その言葉どおり、太平天国の軍と戦っている最中、今度は1856年にイギリス・フランス連合軍との間でアロー戦争がはじまり、清は内外の敵と同時に戦わないといけなくなった。清朝さん、まさに大ピンチ。
英仏を相手に、清が勝利するというジャイアントキリングが起きるわけない。
清朝は当然ようにアロー戦争に負け、1858年に英仏と天津条約をむすび、アヘン輸入の合法化、600万両の賠償金の支払い、治外法権などを認めさせられた。
しかし、清は最悪のタイミングで、最悪の選択をしてしまう。
天津条約の内容が不平等で屈辱的だったため(それはその通り)、政府内で不満や批判が高まり、勝手に内容を変更しようと考えたのだ。
イギリスとフランスがそんな動きを許すはずがなく、アロー戦争のラウンド2がはじまると、清はまたもフルボッコにされる。
この時、フランス軍が皇帝の離宮だった円明園で貴重品を略奪し、イギリス軍によって建物が破壊された。
ぶっ壊された円明園の建物
2度目の戦いにも敗北した清は、天津条約よりも過酷で屈辱的な北京条約をむすばされた。
・清国は賠償金として、天津条約の1.5倍の800万両を英仏へ支払う。
・天津港を開く。
・自国民の海外への移住を認める。
*欧米では奴隷制度を廃止していたため、労働者不足に悩んでいた。これによって、苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者が海外へ運ばれ、現地でこき使われることとなる。ただ、それ以前から、苦力の「輸出」はおこなわれていた。
・清朝はフランスへ没収した教会財産を返還する。
・イギリスへ九竜半島の一部を割譲する。
最初の戦いに負けたあと、清朝は「今度はホンキを出す!」と意気込んだつもりだったかもしれないが、彼らには現実がまるで見えていなかった。それに、一方的に約束を破ろうとした清にもこの結果の責任はある。
ちなみに、アロー戦争がはじまった1856年に、アメリカ領事のハリスが伊豆の下田に着任した。
彼は清でアロー戦争が起きたことを江戸幕府に伝え、イギリス軍が次に日本へ攻めてくるかもしれないゾと脅し、日米修好通商条約をむすぶことに成功した。
太平天国の乱やアロー戦争が起きた19世後半、小説家の魯迅(ろじん:1881年 – 1936年)が生まれた。
中国には、弱っている者をいじめるな、卑怯なことをするなといった意味の「不打落水狗(水に落ちた犬を打つな)」という言葉があるらしい。
魯迅はそれをひっくり返し、「打落水狗(水に落ちた犬を打て)」という言葉をつくったという。
太平天国の乱が起きて弱体化した清に宣戦布告し、さんざん痛めつけ、大きな利益を得た英仏がしたことはまさにそれだった。
洪秀全
アロー戦争が終わっても、清朝はまだ太平天国の乱という爆弾を抱えていた。
しかし、絶体絶命だった清に頼れる援軍が現れる。
そのヒーローは欧米列強だ。
当時、欧米各国は上海を植民地化し、利益を得ていたから、太平天国の軍から上海を守る必要があった。イギリスにとっても、もし清朝政府が倒れたら、北京条約で約束した賠償金や領土が手に入らなくなるかもしれない。
こうなったら、清を全力支援するしかない。
そんな事情から、「常勝軍」という軍隊が組織され、イギリス軍の少佐だったゴードンが司令官となり、太平天国の軍を次々と撃破した。
これで清は勢いを取り戻す。
1864年のきょう7月19日、 曽国藩の湘軍(しょうぐん)が太平天国の首都・天京(南京)を制圧し、約15年にわたる戦いが実質的に終わった。
しかし、悪夢は終わらない。
1894年に起きた日清戦争で日本に敗北すると、清には死兆星が見えはじめ、1911年に孫文による辛亥(しんがい)革命がはじまると、とうとう力尽きた。
もはやこれを鎮める力はなく、欧米の支援を受けることもできず、清朝は滅亡する。
日本は清朝というありがたい反面教師を見て、さっさと開国して大正解だった。
> 中国には、弱っている者をいじめるな、卑怯なことをするなといった意味の「不打落水狗(水に落ちた犬を打つな)」という言葉があるらしい。
> 魯迅はそれをひっくり返し、「打落水狗(水に落ちた犬を打て)」という言葉をつくったという。
へぇ、その言葉は魯迅が作ったものだったのですね。おそらく、彼は社会への警鐘としてその言葉を発したのでしょう。