「弱き者よ、汝の名はミカド」 江戸時代の天皇と将軍の関係

 

「弱き者よ、汝の名は女なり」

現代の人権感覚からすると「女性差別だっ!」とぶっ叩かれそうなこのセリフは、シェイクスピアの名作『ハムレット』に出てくる。
ハムレットの母親が夫をなくすと、すぐに父の弟(ハムレットの叔父)と再婚したから、その様子を見てハムレットはこうつぶやいた。
女は誘惑にもろい、または男に比べて弱い立場にある、といった意味になる。

さて、「弱き者よ、汝の名はミカドなり」と言ってもよさそうなのが、江戸時代における天皇の立場だ。

 

徳川幕府にとって、天皇の立場を法的に定めておくことは超重要なこと。
だから、幕府は江戸時代がはじまると、天皇や公家のすることや守るべきルールなどを記したジャバ・ザ・ハット、もとい公家諸法度をつくり、1615年に公布した。

*17世紀に天皇を意味する「禁中」が加わり、禁中並公家諸法度となった。
区別するのは面倒なので、ここでは「公家諸法度」と表記する。

江戸時代を通じ、武士に対する法である武家諸法度は何度も変わったが、公家諸法度は一度も内容が変更されなかった。天皇と将軍、朝廷と幕府の関係には変化がなかったということになる。
公家諸法度には、天皇は儒学や歴史の書をよく読み、また和歌を大切にすることが重要であると記されている。つまり、天皇は学問に励み、和歌をつくって詠むことが仕事で、政治はわれわれ幕府がおこなうから、天皇や公家は一切口を出すなということだ。
幕府は京都所司代を通じて朝廷の動きを把握し、天皇や公家を管理下においた。
本来の立場で言えば、この状態は「下剋上」になっている。
身分としては、「天皇>将軍」、「朝廷>幕府」であるはずなのに、家来の立場の人間が主人に対してルールを定め、「〜しなければならない」と命令形でそれを守るよう要求しているのだから。
江戸時代の天皇は政治的権利をすべて幕府に奪われ、名目上、日本の頂点にいたことがうかがえる。

 

将軍や幕府に対し、天皇や朝廷がどれほど弱い立場にあったかは、次の2つの事件で見えてくる。

まずは、江戸時代の初期におきた紫衣事件。
当時、天皇が徳の高い僧に紫色の衣を贈る慣習があり、朝廷はそれを重要な収入源の一つとしていた。
後水尾天皇(1596年 – 1680年)も慣習に従ってそれをしたところ、幕府が「勝手にそんなことをすんなっ」と怒り、1627年に将軍・徳川家光が法度違反とみなし、勅許(天皇の命令)の無効を宣言し、紫衣を取り上げてしまった。
後水尾天皇のメンツは丸つぶれ。
この紫衣事件によって、幕府の法は勅許よりも優先されることや、将軍(と幕府)が天皇(と朝廷)よりも上位にあることが示された。以降、江戸時代が終わるまで、基本的にこの関係が変わることはなかった。

 

天明の飢饉で食べる物が無くなり、人びとは人間の肉まで食べた。

 

2つめの事件は、1787年のきょう7月21日に発生した「御所千度参り」だ。
まず、1782年から1788年にかけて天明の大飢饉が発生した。
これは日本の近世でおきた最大の飢饉とされ、飢えや感染症などで人がバタバタと亡くなり、全国的に人口が約 90万人も減ったと言われている。
当時の記録には、「道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と惨状が記されている。
1787年の7月21日から、困窮した民衆が京都御所に集まるようになり、(おそらく天皇を神と考え)飢餓の救済を祈った。
この御所千度参りは毎日つづき、12日目には約7万人がつめかけたという。

これに対し、後桜町上皇は民衆に3万個のリンゴ(和りんご)を配ったり、公家たちは茶や握り飯を提供したりした。
しかし、その程度で何とかなる状況ではない。
光格天皇や関白だった叔父は事態を深刻にとらえ、京都所司代を通じ、江戸幕府に食べ物を配布するよう求めた。
これが公家諸法度に対する違反行為であることは明らかだったが、天皇もその叔父も厳罰を覚悟して、幕府に民衆の救済を要求したのだ。
幕府はそれに応え、京都にいた人たちへ米1,500俵を与えた。
幕府も民衆が飢えていることは理解していたから、天皇や関白の訴えに理解を示し、この件で罰を与えることはなかった。

 

幕末に来日したデンマーク海軍の軍人、スエンソンは天皇について、

「ミカドは政策決定になんら影響力をもたない傀儡の地位にまでおとしめられた」

と表現している。
江戸時代、天皇は格下の将軍から守るべきルールを押し付けられ、お坊さんに衣を与えることも認められなかったし、民衆に米を分けてあげほしいと幕府に頼む権限さえ無かった。
スエンソが紫衣事件や御所千度参りを知っていたとは思えないが、天皇は自身の意思を表明することはできなかったから、まったくの第三者から見ると、将軍のあやつり人形のように見えてもおかしくない。
だから、「弱き者よ、汝の名はミカドなり」と言っても過言ではないかと。

 

 

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1 個のコメント

  • その江戸幕府にしても、トップである将軍の決定が現実の政治を左右できたのは、せいぜい3代将軍家光や8代将軍義宗の頃までです。他は実質的に老中など幕閣による合議制で決まっていました。
    鎌倉幕府も同じで、初代将軍源頼朝が亡き後は北条家による得宗政治でした。室町幕府は3代将軍足利義満の亡後は政治体制が安定せず、結局は戦国乱世となりました。
    政治のトップが独裁権力を握った平清盛、後醍醐天皇、足利義教、織田信長など、いずれもクーデター的に追放あるいは暗殺された例が多いです。(ただし平清盛は病死で直後の子孫が源氏に滅ぼされた。また足利義満もひょっとすると暗殺かも。)

    日本人は伝統的にトップによる独裁政治を嫌い、これを祭り上げて、その下の部下たちによる会議体が実権を握るという体制を好むようです。会議体のメンバーは名前があまり表に出ず、そのため個々の政治的決定に関する責任所在がはっきりしない、これも日本的伝統ですね。

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