【モリソン号事件】アメリカの視点と日本の立場から見ると?

 

きょうは7月30日なので、「モリソン号事件」を紹介しよう。
2週間前の7月15日は、海の恩恵に感謝する「海の日」だった。世界に島国はいくつもあるけれど、こんな祝日があるのは日本だけらしい。
海は魚などの食べ物を与えてくれる一方で、船乗りの命を奪う恐ろしい一面もある。
江戸時代、嵐などで船が漂流することは何度もあり、運の悪い人は魚のエサとなって、運の良い人は外国船に発見され、保護してもらった。

 

モリソン号

 

ある時、海を漂っていた7人の日本人が外国船に救助され、日本に近いマカオへ送られた。
現地に住んでいたアメリカ人の商人が、その知らせを知ってあるプランを思いつく。
いま日本は絶賛鎖国中だけど、彼らを送り届けることと引き換えに、日本は国を開いて貿易を行うようになるかもしれない。
日本が異国船の立ち入りを厳禁しているとしても、わざわざ自国民を届けてくれた相手なら、話ぐらいは聞いてくれるだろう、と彼はアマイことを考えたかもしれない。

こうして、7人の日本人を乗せたアメリカ船モリソン号がマカオを出港し、1837年の7月30日、江戸の入口にあたる浦賀にやってきた。
ここからの展開は、アメリカ側の視点で見ていこう。
この時、幕府の役人がモリソン号にした「おもてなし」について、ペリーが次のように書いている。

彼らはアメリカ人を侮るような態度を見せたかと思うと、翌日の早朝に砲撃をしかけてきたのである。ただちに船は錨を上げて、鹿児島へと向かった。鹿児島は九州の主要都市であり、そこでふたたび錨を下ろした。しかし、しばらくするとここでも船を砲撃する準備が始められ、船が錨を上げないうちに砲火を浴びせられたのである。

「ペリー提督日本遠征記 上 (角川ソフィア文庫) M・C・ペリー; F・L・ホークス」

 

幕府との話し合いがはじまるどころか、命を失う危険があったため、モリソン号は日本人を乗せたままマカオへ戻っていった。
*鹿児島(薩摩)では上陸が認められ、家老の島津久風と交渉することができた。

この時、モリソン号が砲撃を受けても反撃しなかった(できなかった)理由は、日本へ向かう前、マカオでこんな対応をしていたからだった。

純粋に平和的な目的での来訪であることをはっきりと示すために、船の大砲や兵器はすべて取り除かれた。(同書)

 

自国民が乗っている非武装の民間船に向かって、日本は問答無用で砲撃を行い、追い返したことになる。
しかし、日本の観点から見れば、幕府はモリソン号を軍艦とカン違いしていたし、異国船打払令でそうすることになっていたから、仕方がなかったと言えば仕方なし。

その後、渡辺崋山や高野長英などが幕府の強硬な態度に危険感を感じ、「鎖国」を批判したことで幕府を怒らせ、「蛮社の獄」が起こった。

【国なら開かん!】ハードな言論弾圧&綱紀粛正、蛮社の獄

モリソン号の騒動によって、このころには徳川幕府の権威が低下し、政権批判ができる空気が生まれつつあったということがわかる。
そして、ペリーは「純粋に平和的な目的での来訪であることをはっきりと示す」の反対で、完全武装でやってきて、戦闘も辞さない強硬な態度で幕府と交渉し、日本をこじ開けることに成功した。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。