韓国の「終わりの始まり」 第一次日韓協約から日韓併合まで

 

8月22日は韓国にとって悪夢の日。
まず、日露戦争の最中だった1904年に第一次日韓協約が結ばれ、韓国政府は日本政府が推薦した人物を韓国の財政・外交の顧問に任命することが決められた。つまり、韓国の財政と外交が日本のコントロール下に置かれることになったわけだ。
これによって(いま話題の)渋沢栄一が韓国に渡り、財政改革の一環として、韓国で初めて紙幣が発行されることになる。

日本とロシアが朝鮮半島と満州(中国東北部)の支配権をめぐって日露戦争がはじまり、朝鮮半島での戦闘は日本軍が勝利し、日本は事実上、韓国を占領していたことでこの協約が成立した。
実際のところ、もしロシアが勝っていたら、韓国はもっと厳しい条件を突きつけられていたと思われる。
歴史の「タラレバ定食」にはキリがないが、韓国にとって第一次日韓協約は「終わりの始まり」となった。

皇帝だった高宗はこれに不満で、ロシア、フランス、アメリカ、イギリスに密使を送り、日本を非難し、韓国への支援を訴えた。しかし、これは日韓協約に違反しているため、韓国は信頼をなくし、日本を怒らせた。
それで日露戦争が終わった1905年の11月、日本は第二次日韓協約を結んで韓国の外交権をほぼ掌握し、韓国は保護国となる。
高宗はとんでもないブーメランを投げてしまったらしい。

 

日露戦争の風刺画
当時、欧米列強が韓国をどう見ていたかわかる。
この戦争で高宗はロシアに密使を送って協力を約束したが、韓国民は日本の勝利を支持した。

 

第二次日韓協約の背景にあったのが、4ヶ月前に日本とアメリカが結んだ「桂・タフト協定」だ。このとき外務大臣だった桂太郎は、韓国政府が日露戦争の原因にあったことを指摘したうえで、こう主張した。

「もし大韓帝国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう。従って日本は、大韓帝国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない」

要するに、韓国政府が勝手に他国と条約を結ぶと、その勢力を引き込むことになり、日本は自国の安全を守ることが難しくなるということだ。
現代の韓国人からしたらあまりに一方的で、「ふざけんな!」と怒るところだろうけど、当時のアメリカはこれに同意し、韓国が日本の保護国となることが東アジアの安定につながると考えた。
こうして第二次日韓協約が結ばれ、韓国は実際にそうなった。

この内容に不満だった高宗は、1907年にまた外国に密使を送り、協約の無効を訴えた。しかし残念ながら、第二次日韓協約は国際的に認められていたため、韓国の主張を認める国は無かった。
高宗はこのハーグ密使事件の責任をとり、純宗に皇帝の座を譲る。同時に、第三次日韓協約が結ばれ、韓国の軍隊が解散されるなど韓国における日本の影響力はさらに強まった。
高宗はブーメランを投げすぎ。

 

2010年にソウルのバス停で見た掲示。
韓国では日韓併合について、日本の強制されたもので国際法的には無効だったと考えていて、合法だったと主張する日本と対立している。

 

そして、「トドメ」は1910年の8月22日におとずれた。
この日、大韓帝国の京城(今のソウル)で、日本の寺内正毅と首相の李完用が「韓国皇帝が大韓帝国の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」といった内容の日韓併合条約に調印した。
第一次日韓協約からはじまり、二次、三次協約が結ばれて大韓帝国は弱体化していき、この条約によって、日本に併合され、韓国は完全に地上から消えた。

 

 

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3 件のコメント

  • これは私の個人的見解ですが、朝鮮王朝の27人の王の中で国家と民のために働いた人物はただの一人もいなかったと思います。彼らの中でも最悪の君主を挙げるなら、断然高宗だと思います。
    彼は結局亡国の君主になりました。そのように朝鮮は消えましたが、朝鮮王朝は日本の皇室に編入され、「王公族」という名で、当時の日本の首相よりも多くの年俸をもらい贅沢に生活しました。韓国の歴史で「朝鮮」は災いでした。

  • 高宗は国を私物化して、自分の利益をだけを考えていました。国民のことを考えていなかったことは国全体に大きな不幸をもたらしました。
    朝鮮にとって最も困難な時代だったのに、あまりに能力がありませんでした。

  • 旧・大日本帝国が韓国を保護国としてさらには併合してしまったのは、自国の実力を顧みなかった当時の政治家・メディア・国民が犯した大きな過ちでした。おそらく、日清戦争と日露戦争に勝利したことで日本国民全体が「調子に乗って」いたのでしょう。

    たとえば、Wikipediaより:
    > (日露戦争で勝利を得た)国民にとっては、講和条約の内容は賠償金を取れないなど予想外に厳しい内容だった。これは、いかなることであれロシア側へ弱みとなることを秘密にしようとした日本政府の政策に加え、新聞以下マスコミ各社が日清戦争を引き合いに出して戦争に対する国民の期待を煽ったために修正が利かなくなっていたこともあり、国民の多くはロシアに勝利した日本も戦争により疲弊しきっていたという実情を知らされず、相次ぐ勝利によってロシアが簡単に屈服したかのように錯覚した反動からきているものである。例として、1905年9月1日、大阪朝日新聞は社説「天皇陛下に和議の破棄を命じ給はんことを請ひ奉る」を掲載し、つづいて国民新聞を除く有力紙はこぞって条約反対の論説を展開した。このため、日比谷焼打事件をはじめとして各地で暴動が起こり、戒厳令が敷かれるまでに至って戦争を指導してきた桂内閣は退陣した。

    当時の大英帝国ほども植民地経営の歴史・ノウハウがある訳じゃなし、いくら「ロシアの南下を阻止する」という目的があると言えども、他民族の居住する地域を併合し国内扱いして、あげく「明日から我々は同朋です、天皇陛下の臣民として仲良くやって行きましょう」などと、楽天的にもほどがある。
    そんなことができないと知っていたから、イギリスはじめ欧州諸国は「苛烈な植民地支配」という手段を取っていたのですよ。当時の日本の先人たちは欧米諸外国からいったい何を学んでいたのか?(と言うか、そんなことを学ぼうなどとは全く考えもしなかったのでしょうけど。)

    でもだからと言って、その当時、ロシア他他国の朝鮮半島経由での進出を防ぐ方法は他にあるのか?と言われたら返答に困るのですが。結局、伊藤博文が悩んだのと同様に「他の方法では難しい、ならば自分が最善の統治をしよう」とでも答えるしかなかったでしょう。
    いずれにしても、韓国朝鮮併合は、日本の都合だけで行った「大失敗」でした。

    その判断ミスが原因で、今の若い人たちが色々トラブルに巻き込まれているかと思うと、どうにもやるせない気がします。次の首相には、少なくとも「外交上の判断を誤らないだけの能力のある人」になってほしいです。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。