【歴史の違い】身分の壁を越えない日本と限界なしの中国

 

きょうはサッカーの日本 VS 中国戦があるから、それに乗っかって、今回は日中の歴史の決定的な違いについて書いていこう。

 

きょう9月5日は1158年に、後白河天皇が譲位して二条天皇に位をゆずり、上皇となって院政を開始した。
しかし、日本の歴史で院政は、1086年に白河天皇が譲位して堀河天皇が誕生し、白河が上皇となって政治の実権を握ったことがはじまりだ。
白河天皇はなんで院政をしようと考えたのか?
その少し前、朝廷では藤原一族が強大な権力を持ち、政治を動かしていた。
天皇が幼いときは藤原氏の誰かが摂政になり、天皇が成人すると関白になることで、天皇に代わって藤原氏が政治を行っていた。
そんな「摂関政治」の全盛期にいた藤原道長(966~1028年)はこんな壮大な歌を詠んだ。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」

(超意訳:この世は私のもので、日本で私にできないことはない。満月に欠けたところがないように、私の力も完全無欠のパーフェクト!)

しかし、本来の統治者は天皇だ。
13世紀、絶大な権力を持っていたローマ教皇・インノケンティウス3世は、ヨーロッパの皇帝や王たちを念頭に置いて「教皇は太陽、皇帝は月」と言った。月が太陽の光を受けて輝いているように、ヨーロッパの君主はローマ教皇の権威を受けて力を発揮できるのだと。
藤原氏も単独で光輝いているわけではなく、その栄光の源は天皇の権威にある。
だから、白河天皇が院政をはじめて政治の権利を自分に集中させると、藤原一族は権力を失っていく。
「カエサルのものはカエサルへ」で、院政によって日本の統治権は本来の所有者に戻ったのだ。

しかし、その後、今度は武士が台頭し、平家一門が日本の支配者のように振る舞うようになる。
そして12世紀末期、源頼朝が武家政権である鎌倉幕府を開くと、日本の統治権は朝廷から幕府に移った。
きょう9月5日は1205年に、北条義時が鎌倉幕府の第二代執権に就任した日でもある。
執権は将軍の後見役として政治の実権を握り、鎌倉時代を通じて日本を動かしていた。

 

鎌倉時代についてよくある質問が、

「北条さんには実力があるのに、将軍にならないの、なぁぜなぁぜ?」

というもの。
この答えとしてよくあるのが、「なれなかった」と「ならなかった」という説だ。
当時の日本は、天皇を頂点に血統がとても尊重される社会だったから、当然、将軍にもそれが求められた。しかし、北条氏はもともとは地方(伊豆)の有力者でしかなく、将軍になれるほどの「貴種」ではなかったため、なることができなかった。
ほかにも、別の人間に将軍をやらせ、自分はワンランク下の執権で実質的に統治する方が、権力闘争を避けることができたから、北条氏はあえて将軍にはならなかったという説もある。

「源氏」のルーツは天皇にある。
清和天皇が子どもたちに源氏の姓を与えたことで「清和源氏」が 誕生し、この一族から源頼朝が生まれ、将軍になった。源(みなもと)は皇室であることから、「源氏」という名称ができたともいわれる。
地方武士だった北条氏では、どうやってもこの「血統の良さ」にはかなわない。
藤原氏も摂政や関白となって日本の実質的な統治者となったが、天皇を倒し、自分が新しい天皇になって王朝をはじめることはなかった。
北条氏も藤原氏も家臣としての「一線」を守り、名実ともに日本の支配者になることはなかった。
しかし、隣国は違う。

 

917年のきょう9月5日、「南漢」の初代皇帝が即位した。
907年に唐が滅亡した後、中国は分裂状態になり、五代十国(ごだいじっこく)時代に突入し、960年に宋が天下を統一するまでつづいた。
短期間のうちに五つの王朝が興亡し、その周辺に十の小国が存在したことから、「五代十国」と呼ばれる。
中国では血統よりも実力が重視され、それさえあればどんな低い身分の人間でも皇帝になることができたから、歴史では大混乱の状態がよく発生した。
中国の歴史全体を見ると、「皇帝を倒した者が皇帝となって王朝をはじめる→その王朝を滅ぼした者が新皇帝となり…」のループ状態を繰り返してきた。歴史がダイナミックだったから、『三国志』や『水滸伝』みたいな血湧き肉躍る物語が生まれたのだけど。

日本の歴史では、身分において超えてはいけない壁があって、藤原氏や北条氏などの実力者もそれ以上先には進まなかったから、皇室は現在までつづき、ギネスに世界最古の王朝として認められた。
いっぽう、中国にそんな壁はなく、いつも「下剋上」の社会だったから、王朝の交替が何度も起こり、最終的には1911年の辛亥革命で皇帝そのものが廃止された。そしては今では、君主のいない共和国となっている。
日中の歴史において、この違いは決定的。

 

 

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1 個のコメント

  • 日本の歴史上において、天皇を倒そうと反乱を起こしたのは、壬申の乱と南北朝の争乱であり、どちらも皇統の中での「内輪揉め」です。
    他は、藤原氏も、平氏政権も、源氏鎌倉幕府も、室町幕府も、織田信長も、豊臣秀吉も、徳川幕府も、天皇家には手を付けませんでした。(ただし皇太子という後継者選びには口出しした者がいましたけど。)
    その時々の執政者が天皇家を滅ぼすのではなく、むしろ自分達の「正当性」をアピールするために天皇を利用したのは、現人神(あらひとがみ)である天皇が「日本国を統合する象徴」であることを彼らもよく分かっていたからじゃないでしょうか。
    同じような考え方を、ヨーロッパでは「王権神授説」と称し、それが次第に近代の「立憲君主制」へと育っていきました。
    つまり、日本は、ヨーロッパよりも1,000年くらい先行して類似の考え方を社会に敷衍させていたことになります。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。