外国人あるある:ベトナム人「天皇と幕府がわかりませんっ」

 

「この場合は”先祖”というより、”祖先”ですかね?」と言うレベルで日本語ペラペラのベトナム人女性と、バイト先で日本人とケンカできるぐらいの日本語スキルのあるベトナム人男性と、このまえご飯を食べに行ってきた。
なので今回はそのとき話題になった、「天皇と幕府」について書いていこうと思う。

 

でもその前に、まずは問答無用でこのベトナム語の意味を考えてみよう。

 

 

これは「chú ý」というベトナム語で発音は「チューイー」(正確は音はネットで)、意味は「注意」になる。
東アジアにあるベトナムは日本と同じように、中国の影響を受けていて漢字を使っていたから、文化ではけっこう共通する部分があるのだ。
同じ漢字を語源とする言葉には、ほかにも「lưu ý(留意)」がある。

それでも歴史はまったく違う。
「ベトナムはですね、中国とアメリカを撃退した世界で唯一の国なんですよ」と彼らがドヤるから、「日本はね、世界最古の国なんですよ」と伝えておいた。

【最強 vs 最古】ベトナム人と日本人が自国の歴史で誇れること

 

現在の天皇は126代目で、皇室は古代から一度も途切れたことがないと話すと、「そんなに長く続いているのですか!」と驚いたあと、彼らがこんな質問をする。

「日本の天皇はいつから始まったんですか?」

「スシ、ラーメン、オイシイデス」というレベルじゃなくて、日本の歴史を勉強している外国人ならこの疑問は「あるある」のひとつ。
これから出てくる質問も同じだ。

さて、「天皇のはじまり」に答えるのはなかなかむずかしい。
称号でいうなら、「大王」から「天皇」へ変わったのは7世紀ごろだ。
でも、「初めての天皇」となると紀元前660年に即位した神武天皇がいるけれど、神武天皇は伝説的な存在で実在したかどうかはナゾ。
歴史的な起源には第10代の「崇神(すじん)天皇」(3世紀後半~4世紀前半ごろ)や、邪馬台国にいた女王・卑弥呼を天照大神と考えて4世紀とするなど諸説ある。(神代と天皇の発祥
ということでいろんな情報を総合すると、日本の天皇には神話からだと約2700年、リアル世界だと約1700年の歴史があるとみていい。
そんな話を聞いて、「ほ~」と感心する2人のベトナム人。

 

ではここで、ベトナムの歴史をざっくり見てみよう。
紀元前111年~後938年までの約1000年間、中国に支配されていたベトナム(北部)はその後に独立すると、

李朝(1009年 – 1225年)
陳朝(1225年 – 1400年)
黎朝(1428年 – 1527年)

…と何度も王朝が変わって、19世紀にはフランスの植民地となる。
そして20世紀にその支配をはね返し、ベトナム戦争ではアメリカ軍も追い出して、1976年に現在のベトナム社会主義共和国が成立した。
この2人を含めて、ベトナム人の歴史認識はこれが前提になっている。
「国内で何度も支配者が変わる → 欧米列強の植民地になる → 独立して現在にいたる」という歴史プロセスをたどる国は世界中にある。

こう見ると日本の歴史はベトナムの反対だ。
中国やヨーロッパの国に支配された経験はないし、アメリカとは戦っても勝てなかった。
日越の歴史の違いは、ベトナムでは王朝がコロコロ変わったが、日本では古代から天皇家が絶えることなく続いていて、いまではギネスも認める「世界最古の王朝」となったこと。

ここまで話をすると彼らから、こんな質問がくる。

「でも、日本ではいろんな時代がありましたよね?」

それはイグザクトリー。
「李朝 → 陳朝 → 黎朝…」といった王朝の移り変わり(易姓革命)はなくても、「鎌倉 → 室町 →(豊臣秀吉&織田信長)→ 江戸幕府」と時代は変化している。
ベトナムや中国、朝鮮半島の歴史ではいつも皇帝や王が君臨していたから、その家来である武士が国を統治することはなかった。
東アジアの中で、将軍をトップとする武家政権なんてものがあったのは日本だけ。

「武家政権」という新しいワードを覚えた彼らは、今度はこう質問する。

「軍人(武士)による政治っていうのは、ベトナムにはなかったですね。それは日本でいつ始まったんですか?」

武家政権なら、12世紀末期に源頼朝が鎌倉幕府を開いてから。
ただ最近では地頭や国守護人を設置したことを理由に、平氏政権(1160年代 – 1185年)が日本初の武家政権とする見方もある。
だから、そのうち鎌倉幕府は「2番目」になるかもしれない。
武士が力を持ちはじめて、政治の世界に進出したきっかけは「承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱」だ。
10世紀に関東では平将門の乱、瀬戸内海では藤原純友の乱がほぼ同時に発生する。
現在の日本ではよく「東のディズニー、西のひらパー」と言われるのだが、このころは「東の将門、西の純友」と言われた。

2つの乱を知って、「マジかっ」と驚く京都の朝廷。
でも、慌てふためくだけで、貴族には和歌を作る才能はあっても戦闘能力なんてない。
ということでこの日本国のピンチに、平将門の乱には平氏の軍事力、藤原純友の乱には源氏の軍事力をぶつけることにした。
それで結果的に、朝廷は平氏・源氏の武士集団に借りができてしまったから、両氏が政治の世界に入ってくることを認めることになる。
朝廷を中心とする律令国家としての日本は力を失っていき、武士が台頭していくターニングポイントが「承平天慶の乱」だ。

 

まあここまでは細かすぎて、聞いてもオーバーロードする(情報が多すぎてうまく処理できない)だろうから、ベトナム人には平氏政権(平清盛)と鎌倉幕府(源頼朝)の2つを話す。
すると、こんな質問が出てくるのは想定内。

「なんで軍人のほうが力が上なのに、天皇を倒さないんですか?」

圧倒的なパワーのある軍人がいたら、クーデターを起こして天皇を打ち負かし、自分が天皇に即位して新王朝を始めていたはずーー。
ベトナム、中国、朝鮮半島ではそんなことがあったのに、日本では一度も起こらなかった。
ヨーロッパ史にあった市民革命も、日本にはそんなの関係ねー。

ベトナムでは11世紀に、将軍のリ・コン・ウアンが前王朝を打倒して李朝を開いた。
そういうことを常識とすれば(世界史でもこれが普通)、源頼朝が新王朝ではなく、鎌倉幕府という新しい政権をつくった理由がベトナム人にはよくわからない。
日本の歴史には将軍が何人もいたし、織田信長みたいに何でもぶっ壊すような人物もいたのに、なんで誰も天皇を倒さなかったのか?

欧米人やアジア人、アフリカ人など国籍に関係なく、この疑問は「日本の歴史を学ぶ外国人あるある」の一つだ。
でも、この答えはとてもむずかしいから、歴史の当事者の考え方を参考にしてみよう。

 

 

上の人物は南北朝時代、後醍醐天皇に仕えていて、世良親王の教育係もしていた貴族で武将の北畠親房(ちかふさ:1293~1354)という。
北畠親房は南朝の正統性を主張する「神皇正統記」(じんのうしょうとうき)という歴史書を書いて、その中で日本と外国との違いをこう指摘した。

「日神すなわち天照大神がながくその伝統を伝えて君臨している。わが国だけにこのことであって他国にはこのような例はない」

天皇は天照大神(アマテラス)の子孫だから、どんなに力や金があっても、別の人間がその変わりになることはできない。
昔の日本では血統が重視されていたから、「神殺し」は恐ろしいことだし、そんな汚名を着たくなかった。
それに日本中から敬意を受けている天皇は、滅ぼすよりも、その威光を利用して政治を行なったほうが将軍には都合がよかった。
そんなことで天皇は、応仁の乱が起こっても関ヶ原の戦いが始まっても、どの時代でも”聖域”にいてアンタッチャブルな存在になった結果、皇室は古代から途切れることなく、現在まで存続することができたと思われる。

そんな話を聞いて、彼らはこう言う。

「それはベトナムとは違いますね。ベトナムではみんなが天の神の子孫と言われていましたから、誰が皇帝を倒して、新王朝を開いても問題なかったと思います。」

そういう認識なら、ベトナムの歴史には天皇に相当する皇帝がいても、武家政権がなかったことは当然だし、「天皇と幕府がわかりませんっ」となるのも必然だ。
これはどの外国人にも当てはまる。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。