ローマ帝国の「ハドリアヌスの長城」・日本の「白河の関」

 

「長城」というと、日本では中国の万里の長城が知られているが、イギリスにもユネスコの世界遺産に登録された有名な長城がある。
122年のきょう9月13日、ローマ帝国皇帝ハドリアヌスによって、100kmを超える長大な壁の建設がはじまった。(AD122
ローマ帝国は武力で周辺の異民族を制圧し、次々と領土を広げていき、フランスを越えてイギリスに到達した。しかし、現在のイングランドとスコットランドの境界線の近くに、「ハドリアヌスの長城」の建設し、ここをローマ帝国の北限とした。
帝国を拡大することから、内政を重視するターニングポイントとなった象徴がこの壁だ。
ハドリアヌスの壁はイングランドとスコットランドの国境になったことはないが、ヨーロッパでは、一般的にはそんなイメージがある。

当時、北方にいたケルト人が南下して襲撃し、家畜や貴重品、人びとを奴隷として奪っていったため、ローマ帝国は防衛線としてこの壁を建設することにした。
ローマ人目線では、ハドリアヌスの長城は文明世界(ローマ帝国)と未開の地、文明人(ローマ人)と野蛮人を分け、ローマ帝国の権力を示す象徴的な建造物となる。

The wall was also a symbolic statement of Rome’s imperial power, marking the border between the so called civilized world and the unconquered barbarian wilderness.

Hadrian’s Wall

ハドリアヌスの壁

古代ローマ時代、この壁にはオランダ、ルーマニア、アルジェリア、シリアなどから兵士が集められ、多文化空間が形成されていた。

 

ハドリアヌスの壁を日本で例えるなら、現在の福島県白河市にある「白河の関」が思い浮かぶ。
ヤマト王権(3〜7世紀ごろ)が領土を広げていき、北方の蝦夷(えぞ、えみし)と戦うために前線基地を築いた。しかし、ヤマト王権の勢力が前進(北進)したため、軍事的な拠点としての目的がなくなり、ここは陸奥国に入ったり出たりするための関所となる。
白河の関を越えたらみちのく(東北)に入ることから、「みちのくの玄関口」になり、遠く離れた都の人びとはそこに思いをはせ、和歌に白河の関を登場させることもあった。後世では、ここは文化的な意味合いが強くなっていく。

現代でも、白河の関は関東地方と東北地方との境界となっているから、イングランドとスコットランドを文化的に分けるハドリアヌスの壁と似ている。
京都にいた貴族なども、白河の関を文明世界と未開の地を隔てるポイントと考えていたと思われる。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。