中国や韓国と違い、19世紀に日本だけが近代国家になった理由 

 

東アジアにあって、古代から歴史や文化を共有してきた日本と中国と韓国。
19世紀、西洋列強がアフリカやアジア諸国を植民地にしながら近づいてくると、日中韓は独立を維持できるかどうかの脅威にさらされた。
しかし、その後の明暗は残酷なほどはっきり分かれる。
20世紀になると日本の実力は欧米列強に認められ、第一次世界大戦後には、イギリスやフランスと並ぶ世界五大国の一国になった。一方、韓国は日本に併合されて滅亡し、中国は欧米の半植民地状態となった。

日本と中国と韓国、どうして差がついたのか…慢心、環境の違い…。
その理由は、近代化に成功したかどうかだ。

 

譚嗣同(たん しどう:1865年 – 1898年)

 

日本は幕末に、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文といった下級武士たちが立ち上がり、徳川幕府をぶっ倒して、彼らが中心となって明治政府を樹立した。その後、西洋諸国に学んで明治維新という大改革を断行し、政治や教育、軍隊の制度を整え、憲法と議会をもつ近代国家へと生まれ変わった。

中国(清)でも、そんな動きはあった。
日清戦争で日本に負けたことで目覚め、明治維新の成功に学ぼうとする人たちが現れ、多くの清国人が日本へ留学した。
そして、1898年に康有為・梁啓超・譚嗣同(たんしどう)らが憲法を制定したり、国会を開設したりして、まさに日本のような立憲君主制の国に生まれ変わるための政治改革を行った。
これを戊戌(ぼじゅつ)の変法という。
しかし、当時の最高実力者だった西太后は、「ちょってマテ。これが実現したら、私が持っている絶大な権力が制限されるのでは? きっと国の金も自由に使えなくなる」と危機感をおぼえた。
実際、清において西太后は神のような絶対的な存在で、自分の庭(頤和園)を改修するために巨額の軍事予算を流用したこともある。

北京の北海公園の南に住んでいた西太后は、北部にある庭園「静心斎」へ通うために2キロの鉄道を敷かせた。北京で初めて作られた鉄道は、西太后がプライベートで移動するためのものだった。
こんな感じに、西太后が国の金を好き勝手に使ったことが、日清戦争で清が敗北した一因になっている。国の実質的なトップが私利私欲のカタマリだったことは、日本にとってはラッキーだった。

西太后は、自分にとってこの改革はマイナスになると判断し、戊戌の変法で中心人物だった6人を捕らえ、1898年の9月28日に北京の菜市口で処刑された。
現在、彼らは戊戌六君子(ぼじゅつろくくんし)と言われている。
西太后は、自分にとってこの改革はマイナスになると判断し、戊戌の変法で中心人物だった6人を捕らえ、
このとき、康有為と梁啓超は日本に逃げたからセーフ。
譚嗣同も彼らから、「おーい、嗣同、一緒に日本へ行こう」と亡命を勧められたが、彼は次のように言ってそれを断ったという。

「世界を見れば、血を流さずに改革を成功させた例はない。しかし、これまでのところ中国では、国の改革のために命を捧げたという話を聞いたことがない。だから、私がその一人目になろうと思う。」

こうして、国の未来のために譚嗣同はあえて処刑されたという。しかし、清王朝は変わらず、1911年にぼっ発した辛亥革命によって滅亡する。

 

そんな西太后と地理的には近いが、指導者や人徳としては銀河系レベルで離れたところにいたのが明治天皇だ。
西太后と違って、明治天皇は私利私欲をおさえ、日本を自分のものにすることがなかった。
日本学者のドナルド・キーンがそんな明治天皇を称賛している。

総司令官である大元帥だったにもかかわらず、一度の戦争の作戦に干渉したことがないのです。ヨーロッパの皇帝などはしょっちゅうやっています。自分たちの好き嫌いで、この人は連隊長にしろといった命令を出していました。

「明治天皇を語る (新潮新書) ドナルド・キーン」

金 玉均(きん ぎょくきん、キム・オッキュン:1851年 – 1894年)

 

同じ19世紀後半、朝鮮には閔妃(びんひ)という「女帝」がいた。
彼女は朝鮮国王・高宗の妻(妃)という立場だったが、当時の朝鮮の最高実力者は彼女で、実質的に朝鮮を支配していた。
*大院君との激しい権力争いはあったので、興味のある人は調べてくれ。

閔妃は呪術の儀式に夢中になり、国庫の6倍以上というとんでもない金額をそれに使った。その埋め合わせをするため、役人は国民から金になるものを奪い取り、民衆の生活は疲弊していく。
さらに閔妃は俳優や歌手を宮中に招き、夜遅くまで楽しんでいた。
閔妃が国を私物化したことに加え、朝鮮ではワイロも横行していたため、清の李鴻章が朝鮮の国庫を調べて「直近の1カ月の備蓄分もない」と驚くのも無理はない。

康有為と梁啓超と同じように、朝鮮にも国の未来を不安に感じ、国内改革を断行しようとした漢(おとこ)たちがいた。
金玉均や朴泳孝なども明治維新に学び、日本の協力を得ながら国を近代化しようと考え、1884年に閔妃政権を打倒するために「甲申事変」を起こす。
しかし、これはすぐに失敗し、金玉均や朴泳孝は日本へ亡命した。この流れは本当に康有為&梁啓超とそっくり。
甲申事変の10年後、金玉均は上海へ移動し、そこで閔妃政権が送り込んだ刺客によって殺害される。
金の死体が朝鮮へ運ばれると、刃物で切り刻まれ(凌遅刑)、体はバラバラにされて各地でさらされた。

 

西太后と閔妃は国庫を私物化し、国に回復不可能のダメージを与えたという点で「同じ」と言っていいほど似ていると、日本では簡単に言うことができる。
しかし、韓国でそんなことを言うと恐ろしい目にあう。

2000年代に韓国の作家・金完燮(キム・ワンソプ)氏が「朝鮮を滅ぼした亡国の元凶であり、西太后と肩を並べる人物」などと述べたところ、有罪判決を受けて、ソウル中央地裁から閔妃の遺族らへ1000万ウォンの支払いを命じられた。(閔妃

 

朝鮮でさらされる金玉均の首

 

明治時代の日本は近代化に成功し、独立を守ることができた。それだけでなく、西洋列強と同じぐらいレベルの強大な国となった。
日本と中国&韓国との決定的な差は、近代国家になれたかどうかにあり、その重要な条件としてリーダーの資質がある。
19世紀末に朝鮮半島を旅行し、閔妃とも親交のあったイギリス人女性のイザベラ・バードは、朝鮮が豊かになるためには「国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない」と指摘した。
西太后や閔妃は、自分や皇帝(国王)よりも上位にある憲法が制定されることを嫌ったが、明治天皇は受け入れた。日本が立憲君主制の国となった時点で、中韓には追いつけないほどの違いが生まれ、その後の運命がくっきりと分かれた。

しかし、これは明治天皇の個人の資質だけの問題とは思えない。
日本では江戸幕府が崩壊するまで、天皇ではなく将軍(武士)が政治を行っていた。
その始まりは鎌倉幕府の成立なのだろうけど、個人的にはそのすこし前、慈円が「ムサ(武者)ノ世ニナリニケル」と記した平氏政権の誕生を推したい。
とにかく、天皇は12世紀に政治の権利を武士に奪われ、日本では数百年も武家政権がつづいた。
こんな奇妙な政治制度は、中国や韓国の歴史にはない。武士による統治が始まったころから、日本の歴史は中国・韓国とはまったく別のものになった。
天皇には政治の権利がない時代がずっとつづいていたことも、明治天皇の「無欲」につながったと思う。

 

余談

京都に住んでいたころ、祇園が花街として発展した理由について面白い話を聞いたことがある。

幕末の京都では、将軍の住まいである二条城や各藩の屋敷は鴨川の西側にあって、身分の高い武士は先斗町のあたりの料亭に集まって話し合いをしていた。
下級の武士たちは鴨川を通って西へ行き、祇園で食事をしていた。
しかし、明治維新が起きると一変する。
伊藤博文や木戸孝允などの下級武士たちが国のリーダーとなって、京都へ行くと祇園の店を利用するようになった。
結果、先斗町はお得意さんを失って明かりが消え、祇園は京都でいちばん繁栄するようになったという。

これは聞いた話で、本当かどうかは分からない。
ただ、江戸幕府の身分制度で頂点にいた将軍が「ただの人」になり、その時代には「雑草」も同然だった伊藤博文が日本初の首相になったように、幕末と明治で身分がひっくり返ったことは事実。
明治維新は「革命」だったのだ。
日本はそれを実現し、国の近代化にも成功したから、康有為や梁啓超、金玉均や朴泳孝のように、国を守るために立ち上がった青年が外国へ亡命することはなかった。

 

 

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2 件のコメント

  • 基本的に、韓日中3国の国民性での違いだと思います。
    中国は「中華」という考え、つまり、自分たちが世界の中心であり、世界は自分たちの影響下で作動するという考えを持っていました。それで新しい文物や思想、政治体制について学ぼうとする意欲が弱かったです。朝鮮は中国だけを尊重しながら、彼らの傘の下で楽に生きようとしただけです。しかし、日本は島に孤立している環境なので、新しいものを受け入れて日本のものにしようという意志が強かったです。それは、技術、科学、政治体制など、あらゆる分野でした。
    現実を受け入れる姿勢での違い、それが20世紀初頭の東アジアの歴史で日本が強国として登場した理由だと思います。

  • 日本は海に囲まれていたことが、ラッキーであり不幸でした。
    朝鮮半島は中国と陸続きですし、中国は大国でしたから、国を守るためには「中国に攻められない」ということを考えないといけませんでした。
    それで中国依存が強くなりましたが、朝鮮王朝は外の世界を知らず、気づいていなかったのでしょう。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。