11月18日は794年に、桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都した日だ。
長岡京は奈良の都・平城京から北へ40キロメートルほど行ったところにある。784年にこの地に首都が建設されたものの、長岡京遷都の責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺されたり、その件に関して桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)が逮捕され、抗議の自殺(絶食)をしたりと「縁起の悪いことが起きすぎじゃね?」となって、10年で都を長岡京から平安京へ移した。
そもそも、なんで桓武天皇は都を奈良から移動させたかったのか?
その理由には、生活に必要な物資を運ぶには、近くに大きな川がある場所が良かったためということや、奈良の仏教勢力を政治に介入させないためといったことがある。
*平城京には陸路で物資を運んでいたが、この時代は船で運んだほうがずっと効率が良かった。
ここで注目してほしいのは、桓武天皇が仏教僧が政治に口出しすることを嫌ったという点。
聖武天皇が社会の混乱や不安を取り除くために仏教にすがり、東大寺に大仏(廬舎那仏)をつくり、全国に国分寺や国分尼寺を建てた。
仏教の力で国を治めようとする鎮護国家の思想から、僧侶が尊重され、五位以上の貴族の地位を得て政治に大きな影響を与える僧も現れた。そして、僧の道鏡は日本の頂点である天皇になろうとしたと言われる。
*種継を暗殺した首謀者の中には仏教に関わる役人もいた。
桓武天皇は政治から仏教勢力を排除し、正しい政治を行うために平城京を離れ、新しい都をつくることにしたのだ。
アナーニ事件でフランス軍に捕らわれるローマ教皇ボニファティウス8世
大きな十字架を見せつけたがフランス兵には通じず、教皇は下っ端の人間に顔を殴られた。
人びとを統治する力をめぐって、政治と宗教勢力がぶつかることはヨーロッパでもあった。というか歴史を見ると、ローマ教皇と皇帝や王との権力争いの激しさに比べたら、日本はかなりヌルい。
宗教勢力(ローマ・カトリック教会)を政治の舞台から退場させる大きなきっかけに、「アヴィニョン捕囚」がある。
まず、1303年に、フランス王フィリップ4世が、対立していた教皇ボニファティウス8世を襲撃するアナーニ事件が発生。教皇は屈辱と怒りのあまり、憤死したという。
この事件の後、フィリップ4世は教皇をフランスのアヴィニョンに移動させ、そこで教皇を自分の管理下に置く。ローマ教皇がここにいた時期(1309年 – 1377年)をアヴィニョン捕囚という。ローマ教皇は文字どおり囚われの身となり、フランス王に逆らうことはできなかった。
しかし、1377年に教皇グレゴリウス11世がローマに戻ったことで、アヴィニョン捕囚という約70年にわたる屈辱期間が終わる。
グレゴリウスが亡くなると、ローマで新教皇が選出されたが、フランス側はそれを無効だと主張し、別の教皇(対立教皇)を選出したことで、ローマとアヴィニョンに2人の教皇が存在する「教会大分裂」の状態となった。
イングランドはローマ教皇側を、フランスはアヴィニョンの反教皇側を支持した結果、教皇庁は直接的な政治力をほとんど失い、フランスとイングランドがヨーロッパの2大勢力として確する。
the papacy had lost most of its direct political power, and the nation states of France and England were established as two of the main powers in Europe.
ということで今回の例を見ると、日本は「引っ越し」をすることで政治から宗教勢力を遠ざけ、ヨーロッパでは王がローマ教皇を力で制圧したことで、宗教勢力の政治力をなくしたことになる。
桓武天皇が仏教勢力のトップを連行して監禁し、支配下に置けば、フィリップ4世がしたアヴィニョン捕囚と同じ状態になる。天皇はそんなことをしなかったが、織田信長は軍事力で仏教勢力(一向宗や比叡山延暦寺)を粉砕し、日本の政教分離を実現させた。
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