日本と欧州の歴史であった「大分裂」 その内容と解決法

 

ほんじつ11月19日は1392年に、南朝の後亀山天皇が京都で北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝時代が終わった日。
ということで、今回は日本とヨーロッパの歴史で起きた分裂とその解決について書いていこう。

 

前回、フランス国王がカトリック教会の頂点に立つローマ教皇を襲撃し、フランスのアヴィニョンに連行したという話を書いた。

日本と西洋の政教分離 ー平安遷都とアヴィニョン捕囚ー

1377年に教皇グレゴリウス11世がローマに戻ったことで、この「アヴィニョン捕囚」は終わった、と思われた。
彼が翌年に亡くなると、教皇を決める選挙(コンクラーヴェ)が行われ、イタリア出身のウルバヌス6世が教皇に選ばれた。しかし、ウルバヌス6世は急速に教会改革をしようとしたり、エラそう態度をとったりしたため、フランスの聖職者たちが反発する。彼らは選挙を無効だと言い出し、クレメンス7世を教皇と宣言した。
クレメンス7世がアヴィニョンに戻ったことで、ローマ教皇が同時に2人存在する異例の事態となる。
ウルバヌス6世は、神聖ローマ帝国(ドイツ)、イングランド、ハンガリー、北欧諸国の支持を得た。一方、クレメンス7世はフランス、ナポリ、カスティーリャ、ポルトガル、スコットランドから支持を得る。
こうしてヨーロッパ世界は真っ二つに分かれた。(教会大分裂)。

この混乱はその後も続き、それを収めるため、それぞれの教皇庁が話し合って新しい教皇を選ぼうとしたが、2人の教皇が会議への参加を拒否。そのため、両教皇庁によって結成された公会議が彼ら2人を廃位させ、アレクサンデル5世を新教皇とした。
*公会議は教皇を上回る権限を持っていたのだ。
しかし、2人の教皇はこの決定を受け入れなかったため、2人いる教皇を1人にするはずだったのに、3人の教皇が存在するカオス状態となってしまった。

最終的には、1415年のコンスタンツ公会議で3人とも教皇を廃位され、2年後に新しくマルティヌス5世が選ばれて、やっと教会大分裂(1378年〜1417年)は終わった。

 

 

日本の歴史で大分裂といえば、京都と吉野に2人の天皇がいた南北朝時代がある。
日本が北朝と南朝に分かれる前に、まず後醍醐天皇と足利尊氏の分裂があった。
尊氏は鎌倉幕府を滅ぼした最大級の功労者で、1333年に建武の新政をはじめた後醍醐天皇はその功績をたたえ、自分の名前「尊治(たかはる)」から一文字を与え、尊氏は「尊氏」と名前を変えた。
しかし、1335年に鎌倉幕府の残党である北条氏が兵を挙げると、そんな蜜月関係も終了する。
この中先代(なかせんだい)の乱で、北条氏は尊氏の弟・足利直義を撃破すると再び鎌倉を占領した。尊氏は後醍醐天皇に、北条氏を討つ許可と征夷大将軍の職をもらおうとしたが、それは認められなかった。
尊氏は天皇の許可を得ないまま、独断で軍を率いて鎌倉に向かい、北条氏を粉砕して鎌倉を奪い返す。
その後、尊氏は後醍醐天皇から京都へ戻るよう命令されたが、それを無視して、鎌倉に居座ってともに戦った武士たちに恩賞を与えた。これで、2人の対立は決定的となる。

この頂上決戦は尊氏の勝ち。
比叡山に立てこもって抵抗していた天皇は、足利側の和睦要請に応じ、正統な天皇の証しである三種の神器を渡して下山した。尊氏はそれを基に新天皇として光明天皇を即位させ、室町幕府を開く。
これがアニメなら、尊氏が「長く続いた混乱もこれで終わった…」と言ってシーズン1が終わるところ。しかし、後醍醐は策士だった。尊氏に渡した三種の神器はニセモノで、本物は自分が持っていると主張し、京都から吉野へ移動して1336年に新しく朝廷を開いてしまう。
こうして、日本は吉野の南朝(大覚寺統)と京都の北朝(持明院統)に分裂した。アニメなら、シーズン2のはじまりだ。

天皇が同時に2人いる状態がつづくのはどう考えても異常。
そこで北朝を代表して将軍・足利義満が南朝側と話し合い、1392年に明徳の和約が結ばれた。この約束に基づいて11月19日、ホンモノの三種の神器が南朝から北朝へ渡された。これで南北が合体し、分裂状態は終わった。
天皇は大覚寺統(旧南朝)と持明院統(旧北朝)から交代で出すことが決められた(両統迭立)。が、これが守られることはなかった。義満は三種の神器を手に入れると、持明院統だけから天皇を出し、大覚寺統の立場はガン無視される。
旧南朝の皇族の子孫や遺臣たちが怒って反発し、抵抗運動を始めたが、室町幕府の軍事力に勝てるはずもなく、鎮圧された。

それから時代は流れ、戦後になると「自称天皇」が現れる。その代表的な人物が熊沢寛道(くまざわ ひろみち)で、熊沢は自分こそ南朝の天皇の子孫で正統な天皇であると主張し、昭和天皇に退位を求めた。彼は「熊沢天皇」と呼ばれて人々の話題になったが、まともに相手にされることはなかった。

 

熊沢 寛道(1889年 – 1966年)

 

本日のまとめ

ローマ教皇と天皇では、選挙(コンクラーヴェ)と世襲と「なり方」がまったく違う。
教会大分裂は、ローマ教皇よりも公会議のほうが強い権威があったから、彼らが話し合って決断し解決することができた。
一方、南北朝時代は、天皇より権威は低いが、実力では上の将軍・足利義満が力でまとめた。
日本と欧州の社会の違いがよく表れている。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。