きょう12月16日は、冬がホンキを見せはじめる時期。
歴史を見ると、16世紀末のこの日、日本と韓国・中国(明)のあいだで露梁(ろりょう)海戦が起きた。
日韓では価値観や考え方が違うため、日本でこの海戦はほとんど知られていないが、韓国では知らない国民がいないほど有名だ。
16世紀末、豊臣秀吉は1592年と1597年の二度にわたって朝鮮に攻め込み、それぞれ文禄の役、慶長の役と呼ばれている。
このうちの後者、慶長の役で最終局面で行われた大規模な海戦が露梁海戦だ。
鏡に向き合うと、左右が反対に見える現象を「鏡映反転」という。日本と韓国の歴史認識がまさにそんな感じ。まったく同じ出来事でも、見方や評価が逆転することがあって、その一例に露梁海戦がある。
この戦いは韓国では「露梁大捷(たいしょう)」と呼ばれている。
「捷」とは戦い勝つという意味だから、露梁大捷はそのまま「露梁大勝」になると考えてヨシ。
韓国側でこの戦いは、李舜臣将軍が国を守るために戦って大勝利を収めたことになっている。露梁海戦の中心人物である李舜臣は、現代の韓国では国民的英雄となり、国民から広く尊敬されているが、日本の認識は違う。
日本軍は撤退に成功し、指揮官レベルの人物を1人も失わなかった。逆に、朝鮮軍の李舜臣や鄧子龍などの諸将を討ち取ったため、日本サイドでは露梁海戦を「日本の勝利」としている。つまり、日韓が向き合うと勝者と敗者が入れ替わるのだ。
ソウルのど真ん中で、日本軍が侵入した南を向いて立つ李舜臣の像
日韓のあいだでそんな「鏡映反転」の現象は昔から起きていた。
日本では、江戸時代には「朝鮮征伐(せいばつ)」と朝鮮を敵視・蔑視するような表現がされていた。「征伐」とは、悪いヤツや自分に服従しない生意気なヤツを攻撃し、討ち取ることをいう。この言葉には正義の力で悪を滅ぼすという、上から目線の意味合いがある。
一方、韓国では、朝鮮王朝時代には「壬辰倭乱(イムジンウェラン、じんしんわらん)」と呼ばれていた。「倭」は日本を見下す侮辱的な呼び方だから、倭乱とは「日本のヤロウが戦争を起こして社会の安寧を乱しやがった」というニュアンスと思われる。
現在の日本では征伐ではなく、「朝鮮出兵」と隣国に配慮した呼び方になっているが、韓国では相変わらず「倭乱」のまま。
文禄の役や慶長の役のように、起きた場所が国内・国外でも、日本では大規模な戦いには「役」という言葉を使う。
朝鮮出兵が起きた際、朝鮮政府は自国の軍だけでは対応できず、中国(明)軍に救援要請を行い、それに応じた明軍がやってきて日本軍と戦った。そんな背景と「乱」は内戦を意味することもあるから、朝鮮王朝は中国を頂点とする冊封体制において、自国をその次、日本をその下に置き、戦いを起こした日本を「中華秩序を乱した国」と考えていたかもしれない。
江戸時代の日本と朝鮮時代の韓国には、たがいに相手を見下す空気があったことは間違いない。
しかし、21世紀のキーワードは「友好親善」。
日韓中共同研究ではそれぞれの国の立場を尊重し、「壬辰戦争」という呼称が提唱された。韓国の歴史学界でも「倭乱」は自国中心の見方で不適切とみなされ、2012年から一部の教科書では「임진전쟁(壬辰戦争)」に変えられた。
日本語のウィキペディアにはそんな説明があるのだけど、韓国メディアの記事やコラムで使われる用語は相変わらず「倭乱」で、「壬辰戦争」なんて見たことない。ボクが見る韓国メディアの報道は日本語訳だから、韓国語ではそう表記されているかもしれない。
「鏡映反転」現象を克服し、いつか日韓が朝鮮出兵(壬辰倭乱)を「壬辰戦争」で呼ぶ日がくるのだろうか。日本が露梁海戦、韓国が露梁大捷と呼んでいる現状を見ると、それは早くて22世紀の予感。
まず、間違っていることを正します。
“李舜臣将軍がたった12隻の船で330隻の倭軍に挑み、奇跡的な大勝利”のものは露梁海戦ではなく、鳴梁海戦です。
韓国では歴史書に”壬辰倭乱”と書かれていて、依然として通用していますが、一部の知識人から”壬辰戦争”と呼ぶべきだという意見が出ていますし、私もそう呼ぶべきだと思います。
韓国で李舜臣将軍が尊敬される理由は、単に日本に勝った人だからではありません。
彼は当時、ほぼ唯一の愛国者であり、国王の宣祖と彼を妬み嫉妬する朝鮮の官吏から謀略と牽制を受け続けました。 それにもかかわらず、国を守るために自分の身を捧げた人だからです。
もちろん、韓国の左翼はただ「日本を懲らしめた」という痛快さを感じながら李舜臣を崇めますが、韓国民のほとんどは李舜臣の愛国精神に感動するので、彼を尊敬しているのです。
日本人の中でも司馬遼太郎のような作家は李舜臣を尊敬しています。
露梁海戦と鳴梁海戦を間違ってしまいました。
ご指摘ありがとうございます。