なんで桓武天皇は都を奈良から京都に移したのか?
その理由の一つに、仏教勢力が政治に影響を与え始めたから、ということがある。
奈良時代、聖武天皇は仏教を信じ、その偉大な力で国を守り、平和な社会を作ろうと考えていた(鎮護国家)。その象徴が東大寺に大仏で、この時代には大きな寺院がいくつも建てられた。
周りから尊敬されたり、チヤホヤされたりすると、人は自分をエラくなったと勘違いする「天狗現象」は古代からあった。
奈良時代には仏教の権威を背景に、ボウズどもが朝廷に入り込み、大貴族である大納言の地位を得て政治に大きな影響を与えたり、天皇になろうとしたりした道鏡のような怪僧も現れた。
桓武天皇はこうした僧侶の政治介入を嫌い、これが平安遷都の理由の一つとなる。つまり、桓武天皇は「政教分離」を実現したかったのだ。
僧と寺を奈良に置き去りにし、都を移したことで、仏教勢力とは距離をおき、政治の世界から排除することができたけれど、それは完全ではなかった。
平安時代になると、寺や神社は武装した僧兵や神人を送り込み、朝廷に無理やり自分たちの要求を通そうとする「強訴」が行われるようになった。彼らは仏や神の権威を強調すると、朝廷の貴族たちはそれに対抗できず、結局は要求が通ってしまった。
特に奈良の興福寺と比叡山延暦寺は何度も強訴をしていて、「南都北嶺」と言われ、朝廷を困らせていた。
絶大な権力を握っていた白河法皇でも、自分の力ではどうにもならないもの(わが心にかなわぬもの)として、鴨川の水(洪水)とさい(サイコロ)の目、それと山法師を挙げている。
この「天下三不如意」の一つ、山法師は強訴を繰り返す延暦寺の僧兵を指す。当時の貴族や天皇は強訴を洪水のような“災難”と感じていたと思われる。
しかし、そんな宗教的権威が通じなかった存在があった。それが武士。
武士たちは仏教に対する信仰が薄く、身分が低かったこともあり、武士たちは寺や神社の勢力をあまり恐れていなかった。だから強訴があると、朝廷は武士に命じて僧兵たちと戦わせるようになった。
強訴対策として武士は有効で、彼らはジョーカーのような切り札的な存在になったから、朝廷内では武士が重用されるようになる。
そして、武士が政治の世界に関わるようになると、貴族たちの力は弱まり、奈良時代と同じような状態になっていく。平清盛にいたっては、日本初の武家政権(平氏政権)を成立させたから、天皇や貴族にとっては、奈良時代よりも“悪化”したと言えるかもしれない。
京都に都を移しても、奈良の仏教勢力は政治への介入をやめない。彼らは平氏政権に対しても反発し、言うことを聞こうとしなかった。
そんな反抗的な態度に清盛が激怒し、寺社勢力を一掃することを決意した。そして、息子の平重衡(しげひら)に「薙(な)ぎ払え!」と命じ(たぶん)、『平家物語』によれば4万の大軍を奈良へ送る。
当時の貴族(九条兼実)の日記『玉葉』(ぎょくよう)には、「悪徒を捕り搦め、房舎を焼き払ひ、一宗を魔滅す」と平家の強い意思が記されている。
こうして1181年のきょう1月15日、平家の軍勢によって東大寺や興福寺などの寺院が焼かれ、多くの僧侶が命を落とし、東大寺の大仏も焼け落ちてしまった。
京都の朝廷にとって、奈良の仏教勢力がやっかい存在だったが、これはやり過ぎだった。この「南都焼討(なんとやきうち)」は貴族たちに大きな衝撃を与え、先ほどの九条兼実は「言葉で表現することができない。両親を失うことよりも悲しい」と記した。
(凡そ言語の及ぶ所にあらず。筆端の記すべきにあらず。余是の事を聞き、心身屠るがごとし。(略)悲哀、父母を喪うより甚し)
それでも清盛は止まらない。
清盛は、東大寺や興福寺の土地を没収し、寺院の再建を許さなかっただけでなく、再び兵を送って仏教勢力の残党を討った。
しかし、この後すぐに清盛が高熱を発して倒れ込む。『平家物語』によれば、水も飲めなくなり、体は火のように熱くなった。病室に入った者は熱さに耐えられず、近くによることもできなかったという。清盛は「熱い熱い」と苦しみながら、1181年3月20日に亡くなった。
この出来事を、人々は「南都焼討」の仏罰と考え、清盛の体が火のように熱くなったのは、東大寺と興福寺を焼いた報いであると記す人もいた。
その後、清盛の後を継いだ平宗盛は、東大寺や興福寺に対する処分をすべて撤回した。
政治は政治家にまかせて、僧侶は仏道修行に励むことと、人びとを救済する活動に専念するべき。お坊さんが政治に関わると混乱するから、日本の歴史のどこかで、政治と宗教を切り離す必要があった。それには都を移すだけでは不十分。
「南都焼討」から約400年後、今度は織田信長が「比叡山焼き討ち」を行い、日本の政教分離は決定的になった。
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