オランダ独立戦争 スペインと一緒にいられなかった理由

 

ネットで離婚を決めた理由のランキングを見ると、夫婦ともに1位は「性格が合わない」だった。これにはさまざまな要素があるけれど、その中でも価値観の違いが大きい。
お金の使い方をはじめ、生活のさまざま場面で価値観の違いと接するとストレスを感じ、それがたまりにたまるともう一緒にいることは不可能になる。
そんなカップルの離婚を国家で例えるなら分離独立だ。

 

1月23日は、1579年にネーデルラントの北部7州がユトレヒト同盟を結成した日。
この時、7州は独立戦争でスペインと戦っていた最中で、1581年にはユトレヒト同盟が独立宣言を行い、1648年のウェストファリア条約によって国際的にその独立が認められた。
このユトレヒト同盟(北部7州)が、現在のオランダの原点となる。
この独立戦争は八十年戦争(1568年〜1648年)と呼んでもOKだ。

北部7州がスペインからの独立を考えた理由は、カトリック教徒(旧教徒)であるスペイン国王フェリペ2世による過酷な宗教弾圧にある。
当時、フェリペ2世の支配下にあった北部7州にはプロテスタント(新教徒)が多く、カトリックとプロテスタントの間には、同じ神を信じていても(だからこそ)、埋められない価値観や考え方の違いがあった。そのため、ヨーロッパ各地で戦争が起こり、多くの命が失われた。
ドイツが主戦場となった三十年戦争では、450万〜800万人の死者を出し、「人類史上最も破壊的な紛争」とも言われている。
宗教は命や平和を守るためにあるわけではない。少なくとも、この時代のキリスト教はそうだった。

フェリペ2世は、国内にプロテスタントが存在することを許さず、改宗を強制したり処刑したりしていた結果、プロテスタントたちはついに我慢の限界を超え、武器を取って立ち上がった。
こうして1579年、北部7州はユトレヒトでスペインに対抗する軍事同盟を結成し、ユトレヒト同盟が成立した。
1648年、ヨーロッパ各国が参加して三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約が結ばれ、カトリックとプロテスタントによる宗教戦争はようやく終結を迎えた。
この際、スイスとオランダの正式な独立が認められた。つまり、宗教弾圧というドメスティック・バイオレンスをしていたスペインとの「離婚」が成立したわけだ。

 

最後に、日本に認められた「特権」を紹介しよう。

北部7州の一つ、ホラント州に由来してヨーロッパでは「ホラント」と呼ばれるようになり、日本では戦国時代にポルトガルから来た宣教師によって、ポルトガル語の「ホラント」が伝わり、最終的に「オランダ」という呼び名が定着した。
オランダ政府は 2020年に、「ホラント」という呼称を廃止し、正式に「ネーデルラント」を使うことを決定。オランダ外務省も各国に対して「ネーデルラント」の使用を呼びかけている。しかし、日本では「オランダ」という名称がすでに広く使われていたため、その例外とされたのだ。ネーデルラントさんに「オランダ(ホラント)」と呼ぶことが認められた国は、個人的には日本以外しか知らない。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。