幕府を“舐め”てた薩摩藩 パリ万博に出展したり独自メダルを渡したり

いろんなウワサがあって、どんな結果になるか分からないけれど、あと12日後に大阪万博が開幕する。ホスト国の日本は「いのちと、いのちの、あいだに」をコンセプトにしたパビリオンで内外のお客さんを迎える予定。

さて、4月1日は1867年にパリ万国博覧会が開催された日だ。当時の規模は小さく、大阪万博(158の国・地域)の約4分の1にあたる42か国が参加した。
日本が初めて参加したのがこの万博で、江戸幕府のほかに、薩摩藩と佐賀藩がそれぞれ独立した形で参加している。
(42か国のうち、3か国が日本だったりして)

 

薩摩藩の出展

 

幕府はこの動きをまったく知らなかった。
最後の将軍となる徳川慶喜の弟、徳川 昭武(とくがわ あきたけ)が将軍の代わりとしてパリを訪問したとき、初めて薩摩藩が幕府とは別に万博に参加することを知って、彼は驚天動地する。昭武をトップとする幕府の派遣団は薩摩藩に猛抗議し、パリで内輪もめを続けた結果、幕府側は「大君政府」、薩摩藩側は「薩摩太守の政府」という立場で、どちらも日の丸を掲げて参加することが決定された。
この際、薩摩藩の代理人として、フランス人のモンブランが幕府との交渉にあたった。
彼はヨーロッパ的な発想から勲章の授与を提案すると、薩摩藩がそれを採用し、日本初となる勲章(薩摩琉球国勲章)を作って、皇帝ナポレオン3世などに渡した。幕府としてはメンツが丸つぶれだったのでは。

薩摩藩と親しく交流していたモンブランは、フランスメディアに当時の日本の状況について、

「日本は絶対君主としての徳川将軍が治める国ではなく、ドイツと同様に各地の大名が林立する領邦国家であり、徳川家といえども一大名に過ぎない」

と主張をした。
という主張をした。
これは事実で、日本の本来の統治者は天皇で、徳川家は天皇から将軍に任命され、その権威をいただくことで全国の武士のトップに立っているにすぎない。
倒幕を意識した薩摩藩がモンブランに入れ知恵をさせ、薩摩藩に都合のいいように対外工作をさせたとみてよさそうだ。

1866年3月7日、薩摩藩は長州藩と幕府を打倒することで一致し、薩長同盟を結ぶ。その密約に基づいて4月14日、大久保利通は幕府に対し、これまで幕府が勅命(天皇の命令)を無視してきたことを理由に挙げ、薩摩藩は第二次長州征討への出兵を拒否すると伝えた。
幕府がいつ薩長同盟(=薩摩藩の裏切り)を知ったか分からないが、この時点で「何かおかしい…」と気づき始めたと思う。

薩摩藩を欠いたまま戦った結果、長州藩が勝利し、幕府は撤退してしまう。この敗戦で武家政権としての権威は地に落ち、翌年1867年の大政奉還へつながる。パリ万国が行われた年、徳川慶喜は政権を天皇へ返上して徳川幕府は滅亡した。

パリで徳川昭武ら一行が抗議しても薩摩側は聞き入れず、単独で万博に参加したり、独自のメダルを授与したりするなど、ずいぶん幕府を舐めたマネをした。こんな好き勝手なことができたのも、「オマエラは知らんだろうけど、薩摩と長州が手を組んだから、幕府はもう“詰み”なんだよ」と心の中で思っていたからでは?

 

 

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