韓国に関心のある日本人の間で、「韓国と水車」という組み合わせはわりと有名だ。だから、グーグルキーワードにその言葉を入れると、さまざまな関連ワードが出てくる。つまり、それだけたくさんの人がこの言葉で検索しているということだ。

日本では「昔、韓国には水車を作れるほどの技術がなかった」「日韓ではそれほど大きな差があった」という意味で「韓国と水車」を受け取る人が多い。
たしかにこの事実は、江戸時代の日本と朝鮮時代の韓国の発展の違いをあらわす目安になっている。
歴史を見てみると、1763年に来日した朝鮮通信使、金仁謙(キム・インギョム)が記した『日東壮遊歌』という書に水車が出てくる。
実際の話、当時の日本は朝鮮より先進的な社会を実現していて、朝鮮通信使の記録を見ると、日本の発展に驚く人が多い。
金仁謙は日本の水車に注目し、次のように書いた。
河の中に水車を設け 河の水を汲み上げ
その水を溝へ流し込み 城内へ引き入れている
その仕組みの巧妙さ 見習って造りたいくらいだ「日東壮遊歌 金仁謙 (東洋文庫)」
金仁謙はだけでなく、ほかの朝鮮通信使も水車についての記録を残している。朝鮮でも水車を作ろうと試みたが、成功しなかった。
日本で水車は室町時代に登場している。
水車
水流を利用して動力を得る水車と、灌漑用水を汲み上げるのに利用する水車があり、後者は室町時代に先進地域に多くみられた。
「日本史用語集 (山川出版)」
15世紀(室町時代)に来日した朝鮮通信使の朴瑞生も、農村で水揚水車を見つけ、驚いて製造法を調べ、本国に報告したという記録が『朝鮮王朝実録』にある。
先ほどの日東壮遊歌を翻訳した日本人によると、1881年(明治14年)に来日した朝鮮人も日本の水車を見学している。
朝鮮ではなかなか製造するまでには至らなかったのか、一八八一年に朝鮮が日本に派遣した『紳士遊覧団』の視察コースにも同地の水車製造所が含まれている
「日東壮遊歌 金仁謙 (東洋文庫)」
室町時代から江戸時代にかけて、日本の水車は何人もの朝鮮人を驚かせている。しかし、朝鮮では水車は作られなかった。
その理由について、思い当たる人物がいる。
日本人に儒学を伝え、大きな影響をあたえた朝鮮の儒学者、姜沆(カン・ハン:きょうこう)だ。
秀吉の朝鮮出兵の際、彼は日本軍に連行され、儒学者の藤原惺窩(せいか)らと交流した。儒学(朱子学)においては、朝鮮が日本より進んでいたのだ。姜沆が記した『看羊録』を見ると、儒学的な見地から「日本は遅れている」といった記述が何度も出てくる。
藤原惺窩の弟子が林羅山で、林は徳川家康から才能を認められ、ブレーンの1人になっているから、間接的ではあるけれど、姜沆が江戸時代の日本に影響を与えたことになる。
つまり、朝鮮は朱子学という観念的な学問では日本より進んでいたが、水車を作るといった実用的な学問では日本より遅れていたのだ。
おまけ
韓国の伝統舞踊
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コメント
コメント一覧 (1件)
韓国の伝統舞踊は赤、黄色の原色を好み、ゴテゴテした装飾。
簡素 寂び わび を好む日本人から見ると