日本に来た外国人は、丁寧で配慮のあるサービスにもれなく感動する。
経験的にこれは大正解。
他の国のサービスに興味があったから、これまで中国人、韓国人、タイ人、インドネシア人、アメリカ人、リトアニア人、スロヴァキア人、トルコ人、ドイツ人、イギリス人、ブラジル人、トリニダード・トバゴ人など世界中の外国人に聞いてみたけど、みんな日本人のサービス精神には感心していた。
コンビニの自動ドアが開くと、店員は笑顔で「いらっしゃいませ」と言い、出ていくときは「ありがとうございました」と頭を下げる。
こんなサービスで心を撃ち抜かれる外国人はきわめて多し。
アジア人や欧米人、中南米などさまざまな国の外国人から日本についての話を聞くと、いろんな意見はでるものの「日本人のサービスは素晴らしい!」ということでは一致する。
でも丁寧なサービスが、いつでも誰にでもうれしいわけじゃない。
「いらっしゃいませ」と笑顔であいさつをする店員に対して、何も返事を返さないで店中に入ると、相手を無視したような罪悪感を感じる外国人もいる。
個人的な意見だけど、日本人の丁寧なサービスを「負担」と感じる外国人はアメリカ人やイギリス人、リトアニア人、トルコ人などの欧米人に多くて(トルコは半分ヨーロッパ)、中国人やタイ人、インド人などのアジア人では少ない。
これを独断で大ざっぱに分類すると、キリスト教やイスラーム教の一神教の文化圏にいる人たちが、店員を“無視”する態度を心悪く感じていて、神道、道教、ヒンドゥー教、仏教のといった多神教の文化圏の人は特にをそれを気にしない。
*中国や日本お仏教では観音や地蔵菩薩、東南アジアの仏教ではヒンドゥー教の神々が信仰されているからここでは多神教にふくめた。まあ議論のあるところだけど。
そんな傾向があることに気づいて、以前、日本に10年以上住んでいるアメリカ人に意見を求めると、「それは宗教の違いじゃね?」と言う。
けっしてそれだけではないけど、特定の社会や集団に属する人びとの価値観の形成に、めちゃくちゃ大きな影響を与えるのは宗教であることは間違いない。
その国で1000年、2000年前から信仰されているものに、無関係でいるなんてことは不可能で人間業ではない。
欧米社会でキリスト教の影響は他に比べるものがないほど強く、その考え方によると、人は神によって創造されたもので神の前ではすべてが平等。
ひとつひとつ形は違うけど、どれも“神の作品”のようなものだから。
そして創造主である神と人は直接的に、一本の線のようにつながっている。
大学で歴史を専攻したイギリス人から、フランス革命やイギリスの清教徒革命で、国民が王を捕まえて処刑(首を切断)できたことにも、このキリスト教的な平等感が関係していると聞いた。
神は絶対に否定できないけど、神の意志に沿っていれば同じ創造物である国王の存在を“消す”ことができるし、神から与えられた権利を守るためには王の命を奪うことも可能。
そもそも王の権利も神から与えられたものだ。
これについてくわしいことは王権神授説を見てみよう。
伝統的にこういう平等感がある社会では、立場はちがっても店員と客は基本的には対等という意識がある。
だから日本のように「お客様は神様」なんて感覚はなくて、店員と客が「やあ、こんにちは」「こんにちは。今日はいい天気だね」と知り合いのように距離が近い。
だから相手のあいさつを無視すると、自分が失礼を犯した気分になる。
人間は神の創造物という考え方はイスラーム教でもまったく同じ。
でも、「店員スルー」にトルコ人は心苦しく感じたけど、イスラーム教徒のインドネシア人は気にしないと言っていた。
だからこの意見は正解ではなくて、ひとつの見方。
これに対して多神教の文化圏にいる人たちでは、というと範囲が広すぎて脳みそが爆発しそうだから、ここでは日本・中国・韓国・ベトナムの儒教文化圏にしぼろう。
論語や孟子などの儒教の本は漢字で書かれていて、東アジアの国々は漢字を使っていたから共有する文化も多い。
前回に書いたけどベトナム人、トルコ人、リトアニア人、スロヴァキア人の中で、店員のあいさつに無反応でいることに抵抗がないと言ったのはベトナム人(20代の男女2人)だけだった。
他の外国人はこれには心が重い。
くわしいことはこの記事を。
ベトナム人と日本人で共通する価値観は儒教だったから、これにも焦点をしぼろうと考えた理由だ。
5年ぐらい前の日中のサービス格差は圧倒的で、コンビニに入っても店員からのあいさつはなく、目が合ってもすぐにそらされることがよくあった。あれをされると、何だか“放置”されたような、日本では感じたことのない気分になる。
「お釣りを間違えないことがサービスです」と言う中国人の日本語ガイドに、中国でサービスが発達しないわけを聞くと、社会主義にそんな精神は不要だったし、歴史的に「士農工商」の儒教的な考え方が強かったからだと指摘する。
中国では昔から商人を軽く見る傾向があったから、きっといまもその影響があるという。
中国では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた。
キリスト教で商人を特に軽視する考え方は聞いたことがない。
人はつくられたか生まれたかで見方は根本的に違うし、「創造主と創造物」という世界観で士農工商のような考え方があったとは思えない。
中国では「商」で働いている人間がそれを小ばかにしていて、「自分にはもっといい仕事がある」と考えているから、心を込めて丁寧に仕事をする気にならない。
だから店員のサービスは適当だし、大ざっぱな中国人はそういう態度を気にしない。
だから中国人の旅行客を日本へ連れて行くと、日本では普通でも中国では天界のサービスを受けて感激し、また日本へ来たくなる。というのがガイドの話。
やや話がそれたけど、日本でも「士農工商」はあった。
そういう身分制度はなかったけど、職業区分として数百年、存在していた。
ただ日本の場合、「士」とは武士のことで、中国や韓国で「士」とは科挙(いわば国家公務員試験)に受かった官僚を指すから意味は違う。
それに江戸時代、武士に金を貸すような金持ち商人には、武士と同じ地位が認められることもあったから、この点でも中国や韓国にあった「士農工商」とは違う。
でも日本では農業や工芸品などのものづくりを重視して、物を動かして利益を得る商人を軽視する傾向はあった。
歴史作家の司馬遼太郎氏の本で読んだ記憶があるけど、江戸時代の日本人は貿易相手のオランダ人を「ただの商人」と軽く見ていて、「国の代表」と考えていた出島のオランダ人を怒らせたという。
移動の自由を小さな出島に制限した背景にも、こういう見方があるかもしれない。
キリスト教やイスラーム教の「平等な社会」にはないような、日本での店員と客との格差には「士農工商」の影響があるとおもう。
日本のサービスは韓国や中国とも違うし、ここで書いたことにはツッコミどころも多々あるから、あくまでこれはひとつの考察だ。
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そうですねぇ、色々な説があると思いますけど。日本人が別に特別なサービス精神に溢れているわけではなくて、単に社会的な価値観の違いによるものだと私は考えます。
どんな小さな店であっても、商取引というのは「売り手」と「買い手」の間でなされる交渉事であり、一種の戦いでもあるのです。外国人、特に欧米人は、そのような場合に自分と相手との対立を隠そうとはせず、むしろ対立点を明確にしつつ交渉に入ります。それが彼らのやり方。
一方、日本人は、基本的に「争い事を起こすのは良くない、和を大切にせよ」という価値観が支配しているので、たとえそれが商取引の場であっても、敬語で挨拶を取り交わし「できるだけ和やかに」合意点を見出そうとする。ただし、先手を取れるのは商品を抱えている「売り手」の側であり、「売り手」の方が基本的に優位であることには変わりはない。それでもなお、「いらっしゃいませ」の言葉から入ることによって、できるだけ穏やかに交渉事をまとめようとするのが、日本人の商売のあり方なのです。そこが外国人とは違う。
つまり、価格と物・サービスの交換価値について、言葉に出しての露骨な交渉ではなく、あくまで穏やかな雰囲気の元での「話し合い」の場で合意を得ようとする、そんな文化的価値観が「いらっしゃいませ」に表れているのだと思います。
もちろん価値観のちがいですが、それがどう生まれたのかと思って書いたのがこの記事です。
日本人が露骨な交渉を嫌う傾向は確かにあると思います。