上の写真はことしの正月、わが家の神棚にお供えしていた鏡餅。
神道の考え方では正月になると、「年神(歳神)」という新年の神様がしめ飾りのある家にやって来る。
最近、キリスト教徒のスペイン人とイスラーム教徒のインド人と会ったから、彼らに年神のようなものがいるかきいたところ「ない」と即答された。
それぞれゴッドとアッラーだけを信じる一神教だから、そんな神や謎めいた存在が入りこむ余地がない。
キリスト教徒にとって大事なのはクリスマス、イスラーム教に、とってはラマダン月だから、1月1日は宗教と関係はなく重要な日でもないらしい。
だから正月(新年)の文化と呼べるものも特になし。
さて日本の新年の神は、一体どうやってこの世に現れたのか?
古事記にある神話では、スサノオと神大市比売(かむおおいちひめ)の間に生まれたことになっているから、神といっても誕生の仕方人間とかわらない。
年神はその家に幸運をもたらしてくれる大事な大事なお客様だから、おもてなしとして神棚に鏡餅をお供えしないといけない。
これが正月のお約束で、古来からの伝統でもある。
明治時代に生まれて柳田國男の弟子として、日本の民俗学の基礎を築いた折口 信夫(おりくち しのぶ)によると、このとき年神は多くの眷属(けんぞく:使者や同族)を連れて家々を訪れる。
大勢眷属を率ゐて来るのである。かうした神を祀る処は歳棚で、歳棚の供物には、鏡餅・粢・握り飯等があるが、皆魂の象徴であつたのだ。
「鬼の話 (折口 信夫)」
*歳棚は神棚のこと
粢(しとぎ)とは、生のお米を水に浸(ひた)して柔らかくしたものを叩いて粉にして、水でこねた食べ物。お餅の原型ともいわれる。
鏡餅・粢・握り飯と形はちがっても、神さまにはお米を食べてもらうという本質的な意味は同じ。
ちなみに、神を祀る棚(神棚)に関する最も古い記述も古事記にある。
「天照大神が高天原を統治することになった時、伊弉諾尊の御頸珠を御倉板挙之神として棚に奉斎した」ということで、アマテラス(天照大神)が天界を統治するときにイザナミ(伊弉諾尊)を祀ったのが神棚の始まりのようだ。
民俗学者で国文学者、さらに詩人や歌人でもあった折口 信夫(1887年 – 1953年)
神棚にお供えした鏡餅を食べて、年神の恵みやパワーをいただく日がきょう1月11日。
神や仏に感謝し、一年の無病息災や幸運などを祈ってお餅を食する「鏡開き」は日本人にとって欠かせない正月行事だ。
*鏡開きの日は地域によって違う。
食べ方は雑煮でもお汁粉でもかき餅でもいいけれど、お餅を包丁やナイフで切ることはNG。
というのは鏡開きはもとは武家の年中行事で、刃物で切る行為は切腹を連想させるから武士は「切る」(または割る)という言葉をとても嫌がった。
それで代わりに、「末広がり」のめでたい意味のある「開く」という言葉を使っていた。
「餅を切ろう」より「餅を開こう」と言ったほうが何となく明るい気分になるのは、発した言葉が現実になるという言霊信仰の影響か。
江戸時代の武士(をふくめ日本人)は迷信深く、吉兆をすごく気にしていた。
割れた鏡餅で占いをする地域もあって、「鏡餅の割れが多ければ豊作」とされているとか。
もっとくわしい情報はここでどうぞ。
武家の具足式を受け継ぎ、柔道場・剣道場などでは現在も鏡開き式を新年に行うところもある。
江戸城で行われた鏡開きの様子
先ほど日本の民俗学者の意見を紹介したから、最後はフランスを代表する社会人類学者で民族学者のレヴィ=ストロースの言葉で締めくくろう。
昭和の日本を訪れた彼はこう言った。
「私が非常に素晴らしいと思うのは、日本が、最も近代的な面もおいても、最も遠い過去との絆を持続し続けていることができるということです」
日本がいつになっても、年神さまをお迎えする正月文化はきっと変わらない。
画像:UNESCO/Michel Ravassard
日本文化を高く評価する親日家であり、1993年春の外国人叙勲で勲二等旭日重光章が授与されている。
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