2週間ほど前の話なんだが、3月9日は「サンキューの日」。だったかもしれないけど「記念切手記念日」だった。
明治27年のこの日に、日本初の記念切手が発行されたことにちなんでつくられた日。
ところで1894(明治27)年といえば、日清戦争が起きた年じゃないですか。
ということで強引に中国の話に持ち込んでしまう。
中国には「切手」がないということはご存じだろうか?
日本と中国には共通する文化が多くて、その代表的なものは何といっても漢字だろう。
ネットがまだ一般的ではなかった25年ほど前、日本人が中国旅行をするときの楽しみのひとつに筆談があった。いまもそうかもしれない。
英語の文法で、文字はすべて漢字にしてテキトーに文章を作ると、これがけっこう中国人に通じるからおもしろい。
例えば列車の中で出会った中国人に、「わたしは北京へ行きます」という中国語が言えなくても、「我行北京」という文を見せれば「そうか」と相手がすぐに目的地を理解してくれる。
ただ日本語と中国語では、同じ漢字でも意味の違う場合がけっこうある。
中国を旅行中、列車の中で筆談をしていて、職業をきかれたから「我是先生」と書いて見せると、対面の2人が意味不明という顔をする。
どうやら”先生”の意味がわからないようで、2人して漢字の迷宮に入ってしまったらしい。
「teacher」と書いて見せると「ああそうか!」と2人はラビリンスから抜け出して、また筆談を続けることができた。
中国では先生という漢字はないのか?
宿にいた英語を話せる中国人にきいたら、「中国語で先生はミスター(~さん、様)の意味です。だから、それだけ見せられても理解できないしょうね」と言う。
「ミスター」を職業にしているのは長島元監督だけじゃないか。
何という大それたことをしてしまったのか。
セブンイレブンの「ビャンビャン麺」はもはや呪文
日中では「先生」の意味が違うからこんな誤解がうまれたワケだが、「切手」が生み出す錯誤はそれとは違う。
そもそも「スタンプ」を中国語ではそう言わない。
あちらでは「邮票」と書くから、「切手」という日本漢字を見ても意味がわからない。
だからいまは日本語ペラペラの知人の中国人は、「はじめ見てビックリしました。刃物で手を切る?そんなことをしたら血が流れる!と思いましたよ」と笑っていた。
「切手」を見て、ヤクザの指詰めを連想した台湾人(か中国人)がいたらしい。
ネットで翻訳すると確かにそうなる。
文字だけなら、郵便の票(紙片、チケット)の「邮票」のほうが合理的に見える。
日本語で「手を切る」になった理由は、前島 密(まえじま ひそか:1835年 – 1919年)にある。
前島はいまの郵便制度を築いた人物で、「郵便制度の父」と呼ばれるスゲー人。
江戸時代の日本では、商品と交換する紙片のことを「切手」と呼んでいた。
これは「切符手形」を短くしたことばで、事前に購入してその権利を得ることができるから、いまでいう商品券と同じ。
たとえば米切手を見せれば、蔵屋敷などでお米と交換することができた。
日本人にとってはすごく身近なことばだったから、前島密が「切手」という言葉を当てたという。
このへんの過程をすっ飛ばして、漢字だけを見るから中国人は危険なことばとカン違いする。
日中では同じ文字を使っていても、歴史が違うから文化も別ものになる。
これは「先生」も同じ。
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「手」という文字は色々な日常語で使われていますから、日本、中国、台湾で意味が異なる場合もおおいでしょうね。代表的なものに「手紙(←中国語では「トイレ紙」のこと)」があります。おそらく、「手形」とか「手本」とか「無手(←格闘における「素手」のこと)」なんかも、全然意味が違う(または意味不明)だろうと思います。