サウジアラビアにあるメッカはイスラム教では最高の聖地とされていて、「いつかはメッカへ」を夢見るムスリムは世界中にいる。っつーのに、「秋葉原はオタクのメッカ」と軽々しく扱う日本人がいたから知人のイスラム教徒が怒った。
くわしくは記事を。
いまの日本のメディアは宗教に配慮して、「~のメッカ」という表現は自主規制しているから、このことばを見る機会はまずない。
宗教とは地雷だ。
うかつに触れるとケガを負うし、内容によっては謝罪だけでは済まなくなる。
だから新聞やテレビは特に慎重なんだが、コレはOKらしい。
東スポウェブの記事(2021年06月23日)
「無理、無理、無理だぁ!」蓮舫氏にヤジの洗礼 斉藤りえ氏の応援演説で
7月4日に行われる都議会議員選挙に斉藤りえ氏が出馬し、立憲民主党の蓮舫氏がその応援演説で五輪の中止や延期を訴えて菅首相の批判をしたところ、「無理、無理、無理だぁ!」と聴衆から”ヤジの洗礼”を受けたという。
ヤジはいいとして、ここで注目するワードは「洗礼」だ。
洗礼とはキリスト教への入信で行われる超重要な儀式のこと。
いまのキリスト教社会でよくある洗礼の儀式は、聖職者立ち合いのもと、両親が自分の赤ん坊を聖水の中に入れることでキリスト教の信者にさせるもの(幼児洗礼)。
これはキリスト教徒になるための儀式だから、「洗礼」(ギリシャ語でバプテスマ)ということばには特別重い意味がある。
でも日本では、よそ者や新人がある集団や組織に加わるときにイタイ思いをすると、一種の「通過儀礼」の意味で「~洗礼を受ける」なんて表現する。
大リーグに挑戦した日本の投手がホームランを打たれると「大リーグの洗礼を受けた」、サッカー日本代表が海外で大ブーイングを浴びると「アウェーの洗礼」なんて言う。
この表現は、その経験を通してグループの一員となるといったニュアンスで悪意はないけれど、でも洗礼はキリスト教徒にとってはとても重要で神聖な儀式。
「~の厳しさや怖さを知らされた(味わった)」と言えばいいのに、特定の宗教用語をこんなカジュアルに使っていいのだろうか?
日常生活の場面で「いや~洗礼を受けました><」と冗談ぽく言ってしまい、あとから心配になってネットでこんな質問をする人もいる。
「変な表現を使ってしまったかな?と不安に感じています。
キリスト教の信者の方からすると、このような表現を日常に冗談めいて使われるのは
不本意なことでしょうか。
もしくは、厳しい経験をしたようなときに使っても大丈夫ですか?」
結論から言うと「~のメッカ」とは違って、「~の洗礼を受けた」はギリギリOKのようだ。
ちなみに「洗礼を“浴びる”」はそもそも表現としておかしいから論外。
ネットで調べると日本のメディアでは、比喩(ひゆ)として洗礼を使ったらキリスト教関係者からクレームがきてNGになった、基本的に宗教用語は避ける、特に禁止はしていないと社によって判断は異なっている。
くわしいことは読売テレビの「道浦俊彦TIME」を。
でも宗教に関することばはどこのメディアも慎重になるから、「他力本願」「三位一体」「メッカ」は比喩表現では使わないという社もある。
「~メッカ」に比べれば、「~の洗礼を受けた」にはクレームがこないからスルーされているのが実情のようだ。
全国紙レベルだとマズいけど、スポーツ新聞ならなんとかセーフ。
だから「洗礼」はNGワードではないけれど、でもやっぱり、宗教用語は基本的には避けたほうが吉だと思う。
無宗教はいいけど、宗教に対する配慮や知識がないと、かなり高いレッスン料を払わないといけないこともある。
今はもう「ブラックファースト」。白雪姫だって発想が時代遅れでなく単に迎合しただけ。
黒人による白人への暴行映像でもBLMと囃し立てながら行うものが溢れているので。
その内にまた大きな反動がきますよ。
すいません、コメント投稿先を間違えました。
「メッカ」は、全てのイスラム教徒にとって聖地であるけれども、「洗礼(バプテスマ)」は、カソリックのほぼ全員、及びプロテスタント諸派の一部にとっての儀式であるという、その違いも影響しているのでしょう。
それと、「洗礼」という儀式行為それ自体が、既に2,000年以上も前に始まったものですから、現代のキリスト教徒にとっては、その意義や重要性なんかも実感が沸かないでしょうね。
意味はなんだろう? 産湯とか、沐浴とかの一種なのかな?