「日本人は寛容だ」と感心する外国人、実は無宗教の無関心

 

11月16日は国連が制定した「国際寛容デー」(International Day for Tolerance)で、寛容の心について世界中が考える日になっているから、その流れにのって今回は日本人の寛容の精神や宗教心について書いていこう。

「寛容」の意味を確認すると辞書にはこんな説明がある。

「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま。」(デジタル大辞泉)

残念ながら近ごろの日本では、この心が減少傾向にあるらしい。
「日本人 寛容」でネットを検索すると、他人の言動を許すことができずに腹を立てて、大勢の人間が特定の人をバッシングし続けるような不寛容になった日本社会を問題視する記事が山ほどある。
芸能人の不倫で、しょせんは他人ごとなのにいつまでも厳しく責め立てて、本人が謝罪して活動自粛を発表しても炎上がおさまらない様子を見ると、寛容のキャパシティがしぼんだ風船なみの人が増えたと思う。

個人的にも、日本人の沸点は低くなったなと感じることが多い。
コンビニやドラッグストアで、思った通りにレジ作業が進まないと店員に文句を言う客や、レストランで「消毒スプレーをお願いします」と言う店員に「うるさい!」ど怒るアホとか、公共の場でキレる日本人をここ数か月で何人も見た。

 

でも、日本にいる外国人に話を聞くと違う世界が見えてくる。
日本人は自分の意見を相手に押し付けることはないし(ゼロとは言わない)、外国人の話す英語を忍耐強く聞いて何とか理解しようとする。
そんな日本人の“心の広さ”をホメる人がいる。
なかでもこれは「驚がく」のレベルだろう。

きょねんアメリカ人・インドネシア人・トルコ人・インド人・トルコ人・リトアニア人と初詣に行ったときのこと。
お寺が絶賛大混雑していて、中へ入るために列に並んでいると、お寺の目の前でこんなプラカードを持っている外国人と日本人がいた。

 

 

 

「あれはアメリカ人だな。トランプが大統領になってから、自分の信仰や考え方を押し付けるような人間が増えたんだよ。でもまさか、日本に来てこんなことをやっていると思わなかった。恥ずべきことだ」

とアメリカ人は言うけれど、こういう人は以前から初詣のときにいたから、こちらは特に何も思わず感じず。

彼らがしていることとプラカードの内容を知った他の外国人は、「宗教施設の前で、その宗教を否定しているのか!」とみな一様にビックリしてこんなことを言う。

アメリカやヨーロッパで、教会の目の前でこんなことをするのは非常識。口論や下手すれば殴り合いになるかもしれない。
トルコでモスク(イスラーム礼拝所)の前でそんなことをしたら、殴られる可能性は欧米よりも高い。
インドでヒンドゥー寺院の前でイスラーム教徒がこんなことをしたら、その人間は信者に袋叩きにされて殺されるかもしれない。モスクの前でヒンドゥー教徒が同じことをすれば同じ結果になる。

改めて世界基準で見てみると、これは激しい怒りを招きかねない危険な挑発行為だ。
黙っていられない人が出てもおかしくないし、むしろ何も起こらず、不穏な空気も生まれないほうが不自然。
でもここには抗議する人はいないし、誰もがその横を静かに通り過ぎている。
その様子を見て、「日本人はとても寛容だ!」とその場にいたインド人やトルコ人なんかは感心したけど、日本に10年以上住んでいるアメリカ人は「寛容さもあるけど、それよりもこれは日本人が無宗教だからだろう」と言う。

 

ボクもアメリカ人の見方に賛成。

NHKが2019年に公開した世論調査「日本人の宗教的意識や行動は どう変わったか」によると、「信仰宗教なし」と答えた人が最も多くて62%、仏教という人が31%、神道が3%でその他は微々たるものだ。
でもこれも「あえて言えば」であって、仏教と神道、仏様と神様を同じぐらい大事にする人は一般的にいるし、信仰心が薄くて「実質的には無宗教」という人は80%ぐらいはいそうな気がする。

だからお寺の前で仏教を否定するヴァンダリズム(野蛮行為)に対しても、怒りをこらえて許容するという寛容な人は実はほとんどいなくて、無宗教・無信仰からくる無関心で特に気にならない人が圧倒的に多いだろう。

とはいえ日本人にだってもちろん宗教心というか、宗教に対する考え方や見方はある。
江戸時代初期の禅僧・鈴木 正三(すずき しょうさん)は、ホトケを病んだ人の心を治癒する医者に例えた。

人間の心を侵す病毒は何かというと、彼は貪欲と瞋恚と愚痴で、これを三毒と言っております。これに侵されないように、仏様はお医者さんだからいやしてくれる。

「宗教からの提言: なぜ他人の評価が気になるのか (山本七平)」

 

三毒とは克服すべき仏教の三つの“敵”で、貪・瞋・癡(とん・じん・ち)の根源的な煩悩のこと。

「貪」は必要以上にむさぼり求める心。
「瞋」は怒りや憎しみの心。
「癡」(愚癡:ぐち)は真理に対する無知の心で、おろかさのこと。

 

こういう毒に侵されて病んだ心を救うのが仏教だという正三の説は、江戸時代の思想家・石田梅岩の「心学」(心の学び)にも共通していて、日本人の伝統的な宗教心になったと言っていいと思う。

いま日本社会で問題視されている「不寛容」も憎悪やねたみといった心の毒から生まれるものだから、これを仏教や神道などの宗教を「薬」として使って治癒する。
いちばん重要なことは人の心が健全になることで、「症状」によってはキリスト教でもイスラーム教でもヒンドゥー教でも何を使ってもいい。

宗教に対するこんな見方は現代の日本人にも受け入れられるだろうけど、「人>神」の立場から、人間が自由に宗教を選ぶという発想が外国人に通じるとは思えない。
特に「わたしのほかに神があってはならない」という一神教ではあり得ない。
けど、初詣にはお寺でも神社でもどこでも自由に行くことができて、行かない自由もある日本人には常識的だ。
ホトケやカミを医者として有効利用し、病毒に侵された心をいやす発想は日本社会では抵抗なく受け入れられる。

そんな立場から見ると、他人の信仰を否定して、自分の価値観を押し付ける人間は「病んだ心」の持ち主だから同情の対象になる。
だから誰も怒らないし、何も起きない。

 

三毒を動物で表した絵
ニワトリは貪、ヘビは瞋、ブタは癡の象徴

 

 

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日本人の宗教観(神道・仏教)

【世界よ、これが日本の仏教だ】中国人とイギリス人に衝撃!

【怪異ともののけ】日本人が密教を求めた理由とは?

 

1 個のコメント

  • 日本人は、「無宗教」ではなくて、「日本教(≒日本神道)」の信者であって、その宗教が世界で共有されていなというだけのことだと思いますが。そのいい実例が、PL教です。アメリカ本土でPL教の布教活動を体験したのですが、まさに「日本神道」そのものでしたよ。ご本尊は「菊の紋」ですからね。

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    今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。