1960年の7月19日、日本で初めて女性の大臣・中山マサ厚生大臣が誕生したことできのうは「女性大臣の日」だった。
さらにこの日は「戦後民主主義到来の日」でもある。
1949年7月19日、新しい民主主義の到来をテーマとした青春映画『青い山脈』が上映されたことにちなむ。
その「戦後」とは1945年の8月15日、日本がアメリカに降伏して戦争が終結して誕生したわけなんだが、当時の日本兵はその知らせを聞いてどう思ったか?
「いや、ウソだ!日本の降伏なんて信じない」と、そのあと約30年間も戦い続けたミラクルな兵士がいたことはこの記事で書きやした。
ある兵士は日本の敗戦を知って、「あ、これで昭和5年以前に帰るんだな」と当然のように言ったという。
終戦後も戦闘を継続した日本人は例外中の例外として、こんな感想を持った日本人は当時はそう珍しくなかった。
「戦争と同時に軍国主義も終わって、日本で初めて民主主義の時代が始まった」なんて思っちゃってる人だと、「終戦=昭和5年以前に帰る」の意味がよくわからないのでは。
戦後民主主義があれば、「戦前民主主義」だってある。
それは1910年代(日露戦争からという説もあり)から1920年代の、大正時代とほぼ重なる時期にあった「大正デモクラシー」だ。
このとき日本の政治、社会、文化の面で現れた民主主義的、自由主義的な動きを大正デモクラシーという。
具体的にいうと、政治面では普通選挙制度や言論・集会の自由を求める運動、社会面では男女平等、団結権、ストライキ権などを求める運動、文化面では自由教育の推進が展開された。
だから日本人の手によって、民主主義(の芽生え)はすでに戦前に導入されていたのだ。
政治家で教育者の石橋湛山は大正時代を、「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」と評価したし、アメリカの東洋史学者・ライシャワーはこう言った。
大正デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者もライシャワーをはじめ数多い。
大正時代になると明治の雰囲気はかなり消えて、こんな洋服を着て街を歩く国民が登場し、「モダンボーイ」「モダンガール」を略して「モボ・モガ」という若者文化が生まれる。
昭和3年のモダンガールズ
鎌倉のビーチを歩くモガ
傘が明治か江戸っぽい。
「日本の喜劇王」と呼ばれた榎本健一(エノケン)
美容院、カフェ、チェーン・ストアなどが登場し、オシャレな洋服を着た国民がコーヒーを飲んだり、映画を楽しむようになったのも大正デモクラシーのころ。
もちろんそれらの店は現在の日本とは数も質もまったく違うし、そんなことができたのは都市部に住む人だけ。
くわしいことはこの記事を。
戦前のデモクラシー社会が軍国主義へと変わったきっかけは、その時代を生きた評論家の山本七平氏によると1931(昭和6)年におきた満州事変だ。
私の記憶によれば、大正自由主義的な教育が、国粋主義・超国家主義的教育に変わるのは満州事変の翌年か翌々年、すなわち昭和七、八年からである。
「一九九〇年代の日本 山本七平( PHP文庫)」
そして昭和12年に日中戦争がはじまると、日本は教育や政治をふくめ社会全体がすさまじい軍国主義の時代に突入していき、2発の原子爆弾を落とされるまでその熱気は続く。
だから1945年に戦争は終わったと知って、大正デモクラシーの時代を知っている日本兵は「あ、これで昭和5年以前に帰るんだな」と思った。
つまり、これで日本は満州事変の前の社会に戻ると思ったわけだ。
でも、昭和6年以降の軍国主義的な学校教育を受けた若い兵士は、民主主義の日本を知らなかったから、年配の兵士が当たり前のようにそう言うのを聞いてショックを受けたという。
当時の日本人の世代間ギャップについて、山本七平氏はこう書く。
この点、 多少なりとも大正自由主義的教育を経験した者と、それを全く経験しなかった者との間に、意識の断層といえるものがあって不思議ではない。
「一九九〇年代の日本 山本七平( PHP文庫)」
令和のいまでも、戦前の日本には軍国主義という重い闇がず~っと続いていて、戦後になって初めて民主主義の時代が到来したとカン違いしている人は多いと思う。
でも実は、大正デモクラシー→軍国主義→敗戦&その日暮らし→戦後民主主義という流れをたどっているのだ。
戦後に民主主義が日本社会にスムーズに定着した理由は戦前に一度、自由で明るい民主的な時代を経験をしているからだろう。
大正時代のTOKYO
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