中国人にとっての関羽:ウルトラ巨大像と西太后のよりどころ

 

三国志の豪傑・英雄にして中国人はもちろん、日本人や韓国人からも尊敬を集める人物が関羽雲長。
個人的にもファンだったから、湖北省の荊州市にできた関羽の巨大像は生で見てみたいと思ってた。
さすが本家中国、その大きさは高さ約57メートル(およそ20階建てのビル)でお台場ガンダムの3倍という、もう笑うしかないデカさ。
しかもただの立像ではなくて、かなりカッコいいと日本でも評判だ。

 

 

2016年に荊州市が巨額の費用を投じて築いたこの像は、実は「違法」だったとわかっていまは解体されている最中だ。
この建設と撤去に合計3億2790万元(約55億円)がかかることから、国内で無駄な公共事業の象徴としてぶっ叩かれている。
にしてもなんつー金満ぶり。
それにしても業者が「台座の高さ」だけを申請して、それで像の建設許可が下りたこと、そして完成したあとに高さ規制に引っかかると、これを「違法建築」に認定したというデタラメっぷりも中国らしい。
でもこの関羽はほかの場所へ移されるというから、まだ見るチャンスは残っている。
これを見たい思う日本人や韓国人は多いはずだ。

で、これに日本のネットの反応は?

・ワロタwww
・共産党以外の英雄はいらない
・これも爆発かな
・これは関羽の祟り来るぞ
・普通にカッコいいと思ってしまった・・・
・日本では武力99の武将だけど中国では学問の神様

実在した関羽は最強レベルの武人で、死後は中国で神となっていまでも人々から崇拝されている。
でないと、観光の目玉としてこんな像が建てられるハズがない。
ではこれから、そんな人物について知っていこう。

 

The_Ci-Xi_Imperial_Dowager_Empress_(5)

 

上のおばさんは西太后(せいたいこう:1835年 – 1908年)という。
日清戦争のころの皇帝・光緒帝をも上回る権力の持ち主で、まさに“女帝”と言うべき中国の最高実力者だ。
国の予算を自分のATMと考えていた西太后は自由に金を引き出して、国を完全に私物化していた。
たとえば自分の住んでいた邸宅や庭の再建に、日清戦争の総費用の約3倍の国費を投じたという。
*それが北京にある「頤和園」。

この時代の西太后についてはこの記事をどうぞ。

【強欲の魔女・西太后】日清戦争で中国が日本に負けたワケ

 

彼女の強欲も原因のひとつになって、日清戦争で日本は中国に勝利する。
するとそれまで、「眠れる獅子」と中国をひそかに恐れていた欧米列強はこの敗北を見て、実はデッカイ豚だったと気づいて中国の主権を奪い半植民地状態にした。

これは西太后にとっては、自分の庭を荒らされるようなもの。
金銭的な利益も奪われるからこの状態が許せないが、かといって日本に負けた中国に、欧米を追い出す力なんてあるわけない。
そんなとき出会ったのが義和団です。
西太后が忸怩たる思いをしていたとき、1900年(1899年)に中国の農民らが教会や外国人を襲う排外運動の「義和団事件」がぼっ発した。
西太后がこの勢力を公式に支持して、欧米列国に宣戦布告したことでこれは国家間戦争に発展する。
だがしかし、柴五郎がリーダーシップを発揮して北京を守り抜き、日米英などからなる8ヶ国連合軍が北京に到着して義和団の騒乱を鎮圧。

「あかん!これは負けてまう」と察した西太后は北京が陥落するまえに、貧民の格好をして紫禁城を脱出し西安まで落ちのびた。
このとき西太后が光緒帝の愛する女性・珍妃を井戸に放り込んで殺害した話は有名だ。
その遺体を井戸から引き上げて弔(とむら)ったのが、そのあと紫禁城に入ってきた日本軍だった。

 

義和団のメンバー

 

西安の近くに洛陽という古都があって、その南7キロのところに関羽のお墓がある。
関羽を倒した孫権は魏の曹操にその首を贈ったが、祟(たた)りを恐れた曹操は関羽の首をこの地に手厚く葬ったという。
現在その首塚は関林(首塚)と言われている。
中国で皇帝の墓は「陵」でその次にエライ人のお墓は「林」と言われている。
「林」がつく墓は孔子と関羽のものしかないから、この2人は中国で本当に別格だ。

お墓を表す漢字:一般人は塚、皇帝は陵。「林」は誰の墓?

「林」の墓に加えて、57メートルの像が建てられた人物は関羽だけ。

 

中国人の日本語ガイドと関林へ行ったとき、北京から逃亡してきた西太后はここに来て関羽のお墓参りをしたという話を聞いた。
義和団という賭けに失敗して北京に住めなくなった西太后は当時、人生最大レベルの心の傷を負っていた。
そんな彼女が心のよりどころにしたのが関羽という。
中国人にとって関羽は震えるほど強い武将で、さらに絶対に裏切らない忠臣というイメージがある。
絶望の底にいた西太后はそんな関羽に祈って、中国をもう一度強い国にしたい、信頼できる人間を自分のまわりにほしいと願ったのだとガイドは言う。

たしかにそのころの中国と西太后は弱り切っていた。

当初義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」した。西太后はこのとき「中国の積弱はすでに極まり。恃むところはただ人心のみ」と述べたという。

西太后・義和団の乱とその後

下の四文字はこのとき西太后が書いたもので、武将への最高のほめ言葉という。

 

ここに関羽の首がある。

 

 

ガイドの話では曹操が埋めて以来、ここには誰も触れていないからこのようすは三国志の時代のまま。

どうだろう。
関羽は中国人にとって本当に特別な存在ということが、おわかりいただけただろうか。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。