朝から雨で憂うつなきょう10月13日は、日本麻酔科学会が制定した「麻酔の日」。
ということで日本で初めて、いや世界初の偉業に成功した日本人、華岡 青洲(はなおか せいしゅう)を紹介しよう。
ちなみに「麻酔」という言葉は、幕末に杉田 成卿(すぎた せいけい:1817年 – 1859年)が日本語に翻訳したもの。
さらにちなんじゃうと、成卿のおじいちゃんは「ターヘル・アナトミア」を日本語訳した「解体新書」で有名な蘭学医の杉田玄白だ。
まず話は古代中国、魏・呉・蜀の三国が天下統一をかけ争っていた「三国時代」にさかのぼる。
このとき魏にはこんな人物がいた。
「へい!おまち!」と食堂で料理を運ぶオヤジのように見えるこの人は、中国の伝説的な名医「華佗(かだ)」という。
「かだ」と入力すると漢字変換に「華佗」と出てくるから、いまの日本でもけっこう有名だ。
正月に邪気払いや長寿を願って飲む縁起物の酒「屠蘇(とそ)」は華佗の発明といわれる。
「頭いてー」と持病の頭痛で悩んでいた魏の曹操がこの名医のウワサを耳にして、華佗を呼び寄せ自分のお抱え医師(典医)にさせる。が後に曹操を怒らせて、拷問を受けた末に殺されてしまう。
少年漫画なら、編集者から書き直しを求められそうなウツ展開。
劉備・曹操・孫権の活躍を描いた『三国志演義』には、華佗が関羽を治療するシーンが出てくる。
曹仁との戦いで毒矢(トリカブトの毒)を受けた関羽の右腕を見て、華佗は肘(ひじ)の骨をけずってトリカブトの毒を出すことにした。
当然、言葉にならないような激痛に襲われるから、華佗は関羽に腕を柱に固定した方がよいと提案する。
でも、「その必要はない。このままやってくれ」という関羽は酒を飲みながら馬良と碁を打ち、その間に華佗が関羽の右腕を切り開いて骨をけずって毒を除いた。
手術の後、礼として黄金百両を申し出た関羽に、「私がここに来たのは、将軍の仁義をしたってのこと」と言って金を断って華佗は去っていった。
少年漫画なら、編集者から「これ、いいっすねー!」とよろこばれそうな終わり方だ。
治療する華佗と、平気で碁を打つ関羽
この話は江戸時代の日本でも有名で、この浮世絵は歌川国芳の手による。
この伝説的名医を本で読んであこがれたのが、江戸時代の外科医の華岡 青洲(はなおか せいしゅう:1760年 – 1835年)だ。
華岡 青洲
華佗は麻酔薬を使って患者の苦痛を和らげ、手術をおこなって命を救ったという話を知った華岡は、そんな医師を理想に考えて「海賊王におれはなる!」ではなく、「自分は日本の華佗になる」と決意した。
同時に、乳がんの手術をするには、患者の受ける激痛を解決しないといけないことを知る。
それで華岡は麻酔薬の開発を本格的に始めた。
華佗が麻酔薬を使って手術をしたというのは物語に出てくる話であって、歴史的事実として確認されたワケじゃない。
もしそれが事実なら関羽を治療したとき、華佗は麻酔で痛みを感じさせなかったかもしれない。でもそれだと、関羽のヒトのレベルを超えた勇気や胆力を示す設定がぶち壊しになる。
手術をして、これまで救えなかった命を救いたい。
でもそれはまず、患者が手術に耐えられるよう麻酔薬を作らないといけない。
華岡 青洲はいろいろな薬草の研究を重ねて麻酔薬の開発をし、ウサギやイヌなどを使って実験して、その効果を確認したあと人体実験をおこなったという。
母親の於継(おつぎ)と妻の加恵(かえ)が自らの身体で試してほしいと申し出て、数回の実験でついに華岡は全身麻酔薬の「通仙散」を完成させた。
でもその過程で於継は死に、加恵は失明したといわれる。
そして1804年10月13日、通仙散を使って全身麻酔をしたうえで、華岡 青洲は60歳の女性に乳ガンの摘出手術に成功した。
(何気にこのおばあさんも関羽レベルの勇者では?)
全身麻酔を用いた手術はこれが世界初、欧米で初めて全身麻酔が行われたのはその約40年後だ。
通仙散の別名を麻沸散という。
華佗が発明したといわれる麻酔薬が「麻沸散」だから、それにちなんでそう名付けられた。
中国の伝説の名医・華佗の“言い伝え”を、華岡は現実にしてみせたのだ。
手術をおこなう華岡 青洲
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