武力で政権交代する時代は終わって、民主主義の世の中が到来した。
でも候補者にとっては、選挙はまさに生きるか死ぬかの戦い。
そして勝利のためなら、国民に向かって土下座謝罪までするのが韓国の民主主義のスタイル。
ただ韓国の政治家の土下座は、選挙用パフォーマンスのようで何だか軽い。
ガチの土下座謝罪は半沢直樹先生から学ぶべし。
あと40日ほどで行われる大統領選挙で勝つため、各候補は有権者に対して、髪の薄い人には健康保険が解決してくれる、兵士の月給が一気に上がる、ソウルには約50万の住宅がうまれると主張して、しかも税金は減ると訴えた。
できない約束を平気でする候補者に韓国メディアはこうため息をつく。
中央日報(2022.01.24)
【コラム】嘘つき大統領と過ごさなければならない5年=韓国
でも安心してほしい。
選挙前にバラ色の未来を見せておいて、当選すると、すぐに深刻な記憶喪失におちいる政治家は日本にもいるのだから。
有権者に迎合して”ウソ”をつくのは、韓国だけじゃなくて日本の民主主義にもある。
ということで、今回はこのデモクラシーってやつを考えてみようか。
そもそも「民主」とはどんな意味なのか?
明治時代に日本の統計学の基礎を築いて、「日本近代統計の祖」と称される人物に杉 亨二(すぎ こうじ:1828年 – 1917年)がいる。
統計学者で啓蒙思想家でもあった杉は「statistics」という言葉に、「統計」という漢字訳を当てるのはおかしいと主張し、「寸多知寸知久(スタチスチク)」という漢字まで作った。
*「statistics」とは、本来は「合計」を意味するだけで「統計」とは違うらしい。
でも、「寸多知寸知久」なんて言葉が共感をよぶはずもなく、いまの日本社会では「統計」が定着している。
これとは違って、同じ明治の啓蒙思想家・西周(にし・あまね)が「democracy(デモクラシー)」の訳語とした「民主主義」はそのまま現在でも使われている。
韓国語の「民主主義」という言葉はこの日本語を直輸入したものだ。
「democracy」の語源は古代ギリシア語の「人民・民衆・大衆」を意味する「dêmos」(デーモス)と、「権力・支配」を意味する「kratos」(クラトス)を組み合わせたものらしいですぞ。
この「民主」という言葉の意味について、「精選版 日本国語大辞典」を見てみると次の2つがある。
①人民の支配者。君主。
② 一国の主権が人民にあること。また、その政治や制度。
いやいや、王や皇帝とかの「君主」って、「人民」と思いきり矛盾してますやん。と、思わなかっただろうか。
民主とは元々は「民の主」という①の意味で使われていて、たとえば14世紀の『神皇正統記』にはこんな文がある。
「民主の子孫相続して久く君たりしが、漸正法も衰しより寿命も減じて八万四千歳にいたる」
この場合の民主とは天皇のこと。
西周は言葉そのものは変えないで、「民の主」を「民が主」と意味をひっくり返して「民主」をデモクラシーの訳語にしたのだ。
だから民主にはMonarchy(君主制)の意味もあるから、democracyの訳語として定着することには時間がかかったらしい。(そりゃそうだ。)
それまで「人民の支配者」という意味だったのに、突然、「これはデモクラシーの訳語で「主権在民」って意味だから」と言われてもヨクワカラン。
ちなみに、11月に行われるセールの「ブラックフライデー」も背景は「民主」と似ている。
言葉はそのままにして、「大きな利益を生む(赤字から黒字になる)」とポジティブな解釈をすることで、「ブラック」の悪いイメージを打ち消した。
いまでは意味が完全逆転して、「民主」といえばデモクラシーとして定着している。
でも「民が主」といっても、細部にはその国の文化や価値観が宿ってそれぞれ違うから、韓国では大統領候補が土下座謝罪をすることもある。
日本はというと、きょねん東京五輪の開幕を直前にして、日本人に英語を教えているアメリカ人から「あれには呆れた」という話を聞いた。
数人の社会人に英語のレッスンをしていたとき、ある日本人がオリンピック開催に反対する理由として、「小学校の運動会もできないのに、オリンピックを開くのはおかしい」と言う。
いやいや、ソレとコレを同レベルで考えるか?
この日本人の発想に驚いたら、他にもそれに賛成する日本人が出てきて二度ビックリ。
当時はそんな主張をテレビやSNSでよく見たから、これは例外ではなくて、日本式民主主義の1つの表れとみていい。
ただ、「いくらなんでもバカげてる。それはデモクラシーとは違う」という彼の感想には、他のアメリカ人も同意すると思う。
ここまでくると民主主義というより大衆迎合のポピュリズム で、「民が主」ではなくて「民を主張する人」が主になってしまう。
基本的に政治的主張に子どもを持ち出す大人は信用できない。
「statistics」なら誤差は少ないけど、「民が主」という場合、その民にどのていどの権力を認めるかの解釈は人によって違うからむずかしい。
とはいえ、いろんな問題があっても、「民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試されたあらゆる形態を除けば」とイギリスのチャーチル首相が言ったように、これが人類の到達した最善で最終の政治形態だ。民を主としながらも、これに迎合することなく、民主主義をうまく運用していくしかない。
> 当時はそんな主張をテレビやSNSでよく見たから、これは例外ではなくて、日本式民主主義の1つの表れとみていい。(改行) ただ、「いくらなんでもバカげてる。それはデモクラシーとは違う」という彼の感想には、他のアメリカ人も同意すると思う。
そんなの、アメリカ人に限らず、多数派の日本人だってそう考えていましたよ。ただ、メディアもSNSでも「子供の運動会を否定する」ような発言をすれば、「ひどいことを言うな」と世の中から叩かれる、それが十分予想できたから誰しも黙っていただけです。叩く側はポピュリズムです。
周囲の反応を気にし過ぎて自分の考えを主張できない、日本人の典型的な弱点ですね。
> 「statistics」とは、本来は「合計」を意味するだけで「統計」とは違うらしい。
その考えは、おそらく間違いだと思います。
もともと「合計」を意味するのではなく、state(国)の人口集計値などを扱う手法が学問となって、statistics(統計学)という言葉が生まれたのです。ラテン語系の単語。
>「statistics」とは、本来は「合計」を意味するだけで「統計」とは違うらしい
これは毎日新聞のコラムに書いてあったことで内容は正しいです。
> In early times, the meaning was restricted to information about states, particularly demographics such as population.
– History of statistics : From Wikipedia, the free encyclopedia
such as ですから「合計など」を意味する語源です。
その毎日新聞のコラムを執筆した記者は、英語の読解力が不足していたのでしょう。近年の大手新聞記者によくある話。そんな程度だから、きちんと日本語へ翻訳しようともせずに、もっぱら安易なカタカナ語で誤魔化すのです。そもそも理数系の専門用語を文系の人間に正確に説明させるのは無理な話、その素養がないから。
statisticsの語源に関する上と同じ見解は統計学の専門書にも書いてあります。(具体的には忘れましたが。)
これが毎日新聞のコラムの部分です。
>「統計」は本来、合計を意味するだけだったからという。杉は原語の「スタチスチック」を漢字で表記するために、「ス=寸」「タ=多」「チ=知」「ク=久」を組み合わせた創作漢字まで作った。統計の祖に恥じない厳密さである
https://mainichi.jp/articles/20211216/ddm/001/070/100000c
あとは、何を信じるかはその人の判断です。