台湾の観光地や日本統治についての情報を、積極的に発信している台湾のナイスガイ「Hsu Hsu」がこのまえSNSで、「〜忘れられない歴史 • 勇ましい大和魂〜」というタイトルでこんなメッセージを投稿してた。
「湯徳章弁護士の胸像は湯徳章記念公園に樹立してあります。
日本国の皆さんはコロナ禍が抑えられましたら、台湾台南市にいらして、湯徳章弁護士の胸像に献花して、敬意を表してくだされば、有り難いです。」
多くの台湾人(特に台南人)に感謝や尊敬されている「坂井徳章(さかい とくしょう、湯徳章)」を知ってる日本人は本当に少ないと思う。
この人物は日本人として知っておく必要がある。
坂井徳章(1907年 – 1947年)
熊本出身の父・坂井德藏と台湾出身の母親・湯玉の間で、坂井徳章は日台のハーフとして生まれた。
*「湯徳章」は母親の姓による。
つまり金城武さん、渡辺直美さん、一青窈さんの先輩にあたる。
でも彼が誕生し、生きた時代は過酷だ。
100人近い日本人が殺された抗日武装蜂起「西来庵(せいらいあん)事件」が1915年に起こると、警察官だった坂井の父も亡くなった。
そんな父親と同じように20歳で警察官になったあと、坂井はそれを辞めて日本へ渡り、中央大学で学んで1942年に試験に合格し弁護士となる。
そして台南に戻って弁護士事務所を開く。
この後は平凡で幸せな日常を過ごしていたと思うが、1945年に日本が降伏して台湾から撤退し、中国本土の人たちが台湾へやってくると坂井の運命は暗転する。
それまでいた台湾人からは「外省人」といわれる中国人(国民党)の統治が始まると、1947年2月28日に台湾人を弾圧・虐殺する「二・二八事件」がぼっ発。
国民党の暴政に激怒して、台湾の人たち(外省人)が立ち上がる。
でも近代的な武器を持つ国民党に勝てるわけはなく、多くの台湾人が無慈悲に殺された。
学生が決起しようとしていると聞いた坂井は急いでその大学へ向かい、彼らを説得して何とか思いとどまらせることで、学生らを国民党の虐殺から守ることができた。
そんな坂井は国民党に捕まり、決起しようとした学生を言うよう天井からつるされり、銃で殴られるといった拷問を受ける。それでも坂井は一人の名前も言わなかったという。
逮捕から2日後、処刑が行われた。
後ろ手に縛られたまま処刑場となる公園に連れてこられた坂井は、「目隠しは必要ない。なぜなら私には大和魂の血が流れている。」と言って目隠しを拒否する。
そして「台湾人、万歳」と叫んだ直後に銃殺された。
そんな彼の正義感や自己犠牲の精神を称えて、台南市は坂井の命日でる3月13日を「正義と勇気の日」と定めた。
処刑場となった公園は1998年に「湯徳章紀念公園」に改称されて、いまでは德章の胸像がある。
そしてことし2022年3月13日、台南市長は、湯徳章紀念公園から西へ伸びる約170メートルの区間を「湯徳章大道」へ改名すると発表した。
こういう台湾の人たちの思いは、日本人として知っておいた方がいい。
「日本国の皆さんはコロナ禍が抑えられましたら、台湾台南市にいらして、湯徳章弁護士の胸像に献花して、敬意を表してくだされば、有り難いです。」
台湾人にそう言われても、坂井徳章を知ってる日本人は本当に少ないと思う。
そんな日本人に関係なく、胸像に花を添えてくれる台湾人には感謝しかない。
正義と勇気を体現した日台ハーフの坂井徳章には台湾人と同じように、日本人も敬意や感謝の気持ちを示すべきですよ。
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根本閣下の事は知っていましたが…何も知らない自分が恥ずかしい。
わたしも知れば知るほど、知らなかったことの多さに気づきます。