【時代ガチャ】サイパンの戦いで日本への爆撃、民間人の自決

 

成田空港を離陸してほぼ南へ3時間30分ほど飛ぶと、サイパンとかいう海の楽園に到着する。

 

 

「海が綺麗すぎる!」というのは、現在の日本人が見た観光地としてのサイパンだ。
太平洋戦争中の日本軍はこの島を「絶対国防圏」と呼び、米軍に決して奪われてはいけない超重要拠点と考えていた。
ここを死守するため、米軍との激しい戦闘が1944年6月15日から始まり、日本軍は3週間ほど戦い抜いて、最後は司令長官だった南雲忠一のこんな言葉で、全軍がバンザイ突撃をおこない玉砕(全滅)した。

「明後7日、米鬼を索めて攻撃に前進し一人よく十人を斃し以って全員玉砕せんとす」
「予は諸隊の奮戦敢闘を期待し、聖寿の万歳と皇国の繁栄を祈念しつつ諸士とともに玉砕す」

そして約3万人が亡くなったサイパンの戦いがきょう7月9日に終了し、絶対国防圏は米軍に制圧される。

サイパン陥落は日本にとってはまさに悪夢で、致命的な出来事だ。
永野修身軍令部総長の言う「まったく万事休すでした。日本は文句なしに恐るべき事態に直面することになりました」という負けフラグは現実になる。
現在なら3時間半ほどで到達できるサイパンを手に入れたことで、米軍はB-29による日本本土に対する本格的な爆撃が可能になったから。
サイパンを失った時点で日本軍の負けはほぼ確定的となり、7月18日に東條英機はその責任を取って内閣総理大臣を辞職する。
そして長崎・広島への原爆投下に匹敵する、8万人以上の犠牲者を出した1945年3月10日の東京大空襲につながった。

 

当時は日本の委任統治領だったサイパンでの戦いは、日本人の民間人が生活する場所で行われた初めての本格的な戦闘となる。
このときは約3万人の民間人が住んでいて、米軍の艦砲射撃や空襲によって死傷する。
捕虜になるよりは自決を選ぶ人も多く、子どもを殺してから自分もその後を追った人、手りゅう弾で全員が死んだ家族などもいて、サイパンの戦いでは約1万人の民間人が亡くなったとされる。
米軍に追い詰められて、「万歳!」を叫びながら80mほど下の海に身を投じた「バンザイ・クリフ」はとても有名。
3人の若い女性は米海兵隊員が見ている前で、岩場に腰かけて静かに櫛(くし)で髪をとかし、身支度を終えると手を合わせて崖に向かって歩き、そのまま飛び降りた。
それはアメリカ人には想像できない光景だった。

その様子を目撃したアメリカの従軍記者は、テルモピュライの戦いの前に、スパルタのレオニダス1世やその部下たちが決死の覚悟で執り行ったとされる儀式を連想したという。

サイパンの戦い

 

民間人の犠牲というと沖縄戦がよく知られている割には、それよりも先にあったサイパンでの悲劇はあまり語られていない気がする。
このサイパンの戦いには、日本本土への本格的な空爆が可能になったことのほか、初めて多くの日本人の民間人が犠牲になったという重い意味がある。

 

この戦いで犠牲となった日本人が出てくるから、そのつもりで。
崖から飛び降りたのは、会津出身の室井ヨシという女性。
現代の日本に生まれていれば、「サイパンの海が綺麗すぎる!」とユーチューブに動画をアップできていたかもしれないが、「時代ガチャ」に恵まれなかった。

 

 

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今まで、東南アジア・中東・西アフリカなど約30の国と地域に旅をしてきました。それと歴史を教えていた経験をいかして、読者のみなさんに役立つ情報をお届けしたいと思っています。 また外国人の友人が多いので、彼らの視点から見た日本も紹介します。