きょう7月13日は、平安時代に東北で貞観(じょうがん)地震というトンデモナイ災害が起きた日。
この名前は地震のあった貞観11年にちなむ。
869年のこの日、三陸沖を震源とするマグニチュード8ほどの地震が発生し、2011年の東日本大震災のときと同じような範囲で津波が襲ってきて、陸奥國(宮城県多賀城市)のあたりは当時、こんな惨状だった。(日本三代実録)
人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。(中略)雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、海嘯が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。
ビックリした牛や馬は暴れまわり、城や倉庫などいくつもの建物が崩壊し、避難することのできなかった1000人ほどが溺死した。
地震の後には田んぼも畑も、人々の財産もほとんど何も残らなかったという。
小倉百人一首にはこんな歌がある。
「契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは」
(約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が浪を決してかぶることがないように2人の愛も変わらないと。それなのに)
これは貞観地震で、津波が“末の松山”を越えそうで越えなかったという状況を示すものと考えられている。
宮城県多賀城市にある「末の松山」
さて、話は時代も場所もめっさ変わって、19世紀の南米ベネズエラだ。
ちなみに、この国名はイタリアの都市ベネチアに由来するってのはマメ。
長い間、スペインに支配されていたベネズエラは、1811年に高らかに独立を宣言した。と思ったら、翌1812年にベネズエラ第一共和国はぶっつぶれた。
なぜなのか?
そのきっかけは、ベネズエラ北部のカラカス近郊で起きたM6.3の大地震だ。
このカラカス地震でカラカスは市内の70%ほどが壊滅状態となり、犠牲者の数はおよそ2万人、行方不明者の数も含めると最大で4万人とみられている。
スペインから独立して第一共和制が始まったものの、それに反対する人たちはベネズエラにまだまだたくさんいた。
そうした反対派の人たちはこの天災をこんなふうに”利用した”と、在日ベネズエラ・ボリバル共和国大使館のHPに書いてある。
カラカス大地震である。独立運動に反対する王党派や、王党派を支持する多くの宗教家たちは、独立派に神の罰が下ったと喧伝した。
長いスペイン支配と布教活動の結果、多くのベネズエラ人がキリスト教徒になって、その影響はすっかり社会全体に根付いていた。
一神教のキリスト教では、神はこの世のすべてを創り出した創造神しかいない。
この世で起こることはすべて神によるものだから、都市を破壊し、1万人以上の死者を出した地震もそうだと人々は考えた。
ということで、国民はこの天災を「共和国を認めない」という神の意思のあらわれと理解する。
それで“神意”を得て勢いにのったスペイン軍が攻撃を開始すると、第一共和制はそれを防ぎきれずに瓦解した。
あの大地震を“神の罰”と考えたベネズエラ人は多かったから、第一共和制側の人間も「神は我々を否定した…」と士気を失っていたと思われ。
地震は神の怒りによるものというキリスト教徒の発想は、平安時代の日本人にもあった。
貞観地震のあと京都の朝廷(清和天皇)は、負傷者は救護し死者はすべて埋葬するよう命じ、被災者には租税と労役義務を免除する。
さらに陸奥国の「正五位」だった神に「従四位下」を授けた。
より上位の位階(いかい)を神に与えたというのは、この地震を陸奥国の神の怒りによるものと考えた朝廷が、地位や身分を高くすることで神のご機嫌をとり、こうした災害を起こさないよう願ったことの表れだろう。
歴史学者で地理学者の吉田東伍(よしだ とうご:1864年 – 1918年)は、このランクアップを「府城の変災の歳に、三階を超越したるは、正しく彼の災をば、山神の憤怒に因るものと見做された証拠にもなる」とした。
多神教を基本とする日本人の伝統的な思想と、一神教のキリスト教では根本的な発想が違っている。
そもそも、キリスト教やイスラム教でいう創造神が神道の神にはいない。
(山神に位階を授けるというのは、主に神道の考え方だろう)
それでも地震の原因を神の意思と考え、怒った神が人間に“罰”を与えたとする発想は同じだ。
ただ人が神に高い地位を与えるという、平安時代の人間優位の発想はキリスト教にはあり得ない。
コメントを残す