1543年のきょう9月23日、種子島に外国人を乗せた船が漂着した。
その中にいたポルトガル人が初めて日本の地を踏んだヨーロッパ人で、彼らは鉄砲をもっていたことから、この日は「鉄砲伝来の日」になっている。
これをきっかけにたくさんのヨーロッパ人が来日するようになって、日本にさまざまな西洋文化がもたらされた。
ちなみにきょうは、1871(明治4)年に政府が散髪脱刀令を布告した日でもあり。
「ちょんまげと刀」という江戸時代のサムライ・スタイルはもうやめて、新しい日本人は西洋人のような髪型・服装をしようと政府が呼びかけた。
日本の歴史では戦国時代と明治時代に、西洋文化を積極的に取り入れて社会が大きく変化したのだ。
岩倉使節団のメンバー(左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通)
この中で日本文化に強いこだわりを持っていた岩倉具視だけは、和服にちょんまげという姿で出かけた。でもアメリカで先進的な文明を見て、衝撃を受けた岩倉はシカゴで髪を切り、洋服を着て下のようなモダンな姿に変身。
ことしの夏、日本の花火を見たいとうるさいインド人がいたから、彼と友人の2人を近所の花火大会へ連れていくことにした。
途中でスーパーに寄って食べ物と飲み物を買い、会場に到着するとビニールシートを敷いて、花火が始まるまで「もぐもぐタイム」となる。
インド人がスーパーでどんなチョイスをしたのかと思ったら、ポテトチップスやキットカットは分かるとして、意外だったのはカステラだ。
彼ら2人が唯一、選んだ和菓子がこれ。
*日本生まれのカステラは和菓子に分類される。
彼らの話では、いままで食べた饅頭やほかの和菓子は、甘すぎてどうしても好きなれない。でも、カステラはほどよい甘みで食感も良いから、これはインド人に合っているらしい。
戦国時代末期にやってきたヨーロッパ人は、日本人にこんなものを伝えた。(南蛮文化)
油絵、地球儀、機械時計、眼鏡、オルガン、カルタ、カッパ、タバコなどなど。
そして食べ物ならパン、カステラ、コンペイトウ(金平糖)、カルメラ。
宣教師はキリスト教の布教で、これらのスイーツを効果的に使っていたのだ。
ルイス・フロイスが布教の許可を得るために織田信長と会った時、コンペイトウを献上したという記録がある。
日本人の信者を獲得するためにカステラさんも活躍したらしい。
カステラの名前はイベリア半島のカスティーリャ地方(国)に由来するという。
カステラが日本人に画期的だったのは、材料に小麦粉、砂糖、卵を使うこと。
当時の日本人にはお菓子作りで「卵を使う」という発想がなかったから、後にどら焼きや大判焼きが生まれたことを考えると、西洋人がこの焼き菓子を戦国時代の日本人にもたらしたことはスイーツ革命といっていい。
鎖国をしていた江戸時代、オランダ貿易の窓口になっていた長崎には、輸入された砂糖がたくさんあったから、それを使ったカステラ作りが盛んになる。
カステラは江戸城での接待にも使われていたから、文句なしの和菓子だ。
スペインの焼き菓子「ビスコチョ」か、ポルトガルの焼菓子「パン・デ・ロー」か、それともほかの南蛮菓子かわからないけど、ヨーロッパの焼き菓子が日本で独自に発展して現在のカステラになる。
長崎カステラでは水飴を使っているのが特徴で、ほかにバターを使っていない点もヨーロッパのケーキと違う気がする。
ちなみに長崎には「ワカラン文化」というものがある。
日本・中国・西洋(オランダ)の要素がミックスされた長崎独特の文化が「和華蘭(わからん)」と呼ばれていて、それは約400年の歴史をもつ祭「長崎くんち」で見ることができる。
カステラは西洋から伝わった新しいお菓子の製法を取り入れて、日本人が開発した和菓子だから、インド人にとってはきっと親しみやすい。
饅頭やほかの和菓子が苦手な外国人でも、これならお気に入りになる予感がする。
南蛮文化を吸収し、発展させたことで和菓子の幅はとても広がった。
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